コルタサルは1914年生まれ1984年没。ベルギー生まれで両親の住むブエノスアイレスに戻る。戦後にパリにわたり、生涯をフランスで過ごした。この短編集でしか知らないので、断定するのは危険だけど、ほかの中南米の作家ほどに中南米という場所への偏執はない模様。そういう神話的な場所やアニミズムのような自然認識はさほどなくて、むしろ理性でもって世界を認識しようとする試み。そのせいか、物語の構造というか、起承転結のメリハリがちゃんとしていて、読みやすい短編になっている。ただ、この人の理性は、夢やヴィジョンなどに浸食されやすいものであるみたい。そのために結末があいまいであったり、なぜそのようになったのかの説明を欠いていたりで、不安と迷宮を読後に残す。
続いている公園 ・・・ 公演に面した書斎で犯罪小説を読んでいたら。1956年初出というから、フレドリック・ブラウンの短編(「うしろを見るな」@まっ白な嘘)とどちらが早かったのかな。まあ、影響関係はないはず。
パリにいる若い女性に宛てた手紙 ・・・ パリにいった若い娘の部屋に越してきた若者の手紙。気に入ったんだけど、一つ問題があって、自分はときどき子兎を吐き出してしまうんだ。いや、みんなには知られないように注意しているけど、10羽もいるのでもうてんやわんや。このファンタジックな物語も、もしかしたら部屋をめちゃくちゃにしたいいわけのウソかもしれないと思うと、何が正しいかわけが分からなくなるよな。そういうのがよい。
占拠された屋敷 ・・・ イレーネという妹と大きな古い屋敷でくらす40代の「ぼく」。あるとき、屋敷が占拠され、住みかがせまくなる。ピンチョン「エントロピー」、ウォルポール「銀の仮面」みたいにだれがなぜ占拠したかの説明がないので、とっても「ふしぎ」@都筑道夫。
夜、あおむけにされて ・・・ 自動車事故を起こした男が病院に収容され、ギブスで固定される。ますいでうつらうつらするとアステカの人身供養のいけにえにされている夢を見て。福永武彦「飛ぶ男@廃市・飛ぶ男」(新潮文庫)を参照。
悪魔の涎 ・・・ 公演で年の離れた男女の写真を撮った。彼らに抗議されたが、それを振り切ってパネルに引き延ばすと、不思議なことが起きた。まあ、M.R.ジェイムズにも都筑道夫にもある怪奇譚なのだが、ここでは語り手がいかにも頼りなく、「真実」がどこにあるのかが不明で、不安になる。
追い求める男 ・・・ 黒人のアルト・サックス奏者ジョニー・カーター。大酒を飲み、マリファナを吸い、支離滅裂な言動で、生活を律することができない。サックスでさえいくつも壊している。しかし、興に乗った時、彼の演奏は素晴らしい。あのマイルス・デイヴィスでさえ一目置くほどに。彼の気まぐれは、音楽のミューズがいつ来るのかコントロールできないことと、音楽のその先にある何かを手でつかみたい・追いつきたいという願いがあるから。ビ・バップ発祥のころのジャズの世界。でたらめで、むちゃくちゃで、とんでもなく素晴らしい奏者と演奏のあった時代。芸術でその向うに行きたいというのは、「ジャン・クリストフ」でも「ファウスト博士」でもあったが、それがジャズであるというのがこの1950年代。コルタサルの住んだパリではジャズが流行っていた。こういうジャズミュージシャンの超越への期待を輝かせるのは、伝記作家である「私」の凡庸さがあってのこと。
南部高速道路 ・・・ 日曜日の午後、パリに向かう高速道路で大渋滞が起きた。それは日が暮れても解消せず、翌日も続く。ドライバーは自然とグループを作り、食料と水の手配をはじめ、暇をつぶそうとする。病人と子供の世話をする人もできた。酷暑の日の後に、雪の日が来て、渋滞は解消しない。現代の寓話かな。高速道路を資本主義とみてもよいし、20世紀にたびたびうまれた難民であるとも思えるし。
正午の島 ・・・ イタリアとベイルートの定期飛行機でキャビンアテンダントを務める男は正午に眼下に見えるギリシャの島に異常な関心をもつ。より条件のよい転属を拒否し、仕事がおろそかになり、友人を失う。そして休暇をとりようやくその島にいくことができた。
ジョン・ハウエルへの指示 ・・・ 退屈な芝居の一幕の休憩中、芝居小屋の連中に連れられていきなり芝居に出ることになった。2幕はいい加減にこなしたら喝采をあび、3幕は劇を壊すようにふるまった。そのあと、なぜか芝居小屋の連中に追われる。
すべての火は火 ・・・ 古代の剣闘士の戦いと現代の有閑マダムの不倫の話が交互に現れ、炎によって浄化する。
初出が書いていないので、いつどこに発表したのかがさっぱりわからない。バイオグラフィーと作中の描写から1950-1960年代前半にかけてものかしら。この種のことは何度も書くけど、解説には初出は必須だと思うので、書いてくださいな。
・ボルヘスがタンゴを偏愛するとしたら、コルタサルはジャズを偏愛。「追い求める男」のジョニー・カーターはたぶんチャーリー・パーカーをモデルにしていると思うけど、もしかしたらセロニアス・モンクのエピソードもはいっていたり、他の夭逝したジャズ奏者も反映しているのかも。それくらいに、この時代には個性的な奏者がたくさんいた。そして、フランスはビ・バップをいち早く受容した場所。ヌーヴェル・バーグ映画もジャズをBGMにしたのが成功の要因のひとつ。
(ジャズがストリートで兄貴やおっさんから覚えるものから、大学で勉強するものに変わる。そうなってからのジャズは自分にはあまり興味を持てない。)
・最初は、読者と地続きの現実世界を描写しているのだが、いつのまにかそこに幻想が加わっていく。男が子兎を吐くとか、日暮れても解消しない渋滞が続くとか、素人が商業演劇の舞台にたつとか(ここはブニュエル「ブルジョワジーの秘かな愉しみ」を思い出した)。その幻想が現実に介入するところ、浸食するところが巧妙。そのうちに現実と幻想の境があいまいになって、どちらが「正しい」のかわからなくなっていく。
・その書き方はたぶんに怪奇小説と親和性が高くて、上記のようにいくつかの短編は別の作家の作品に似ているところがあった。実際、ガルシア・マルケス他「ラテン・アメリカ怪談集」(河出文庫)には、「占拠された屋敷」が別タイトルで収録されている。読んでみると、都筑やブラウンの作品とコルタサルにはそれほど違いがないと思う。自分はあえて作品の象徴性などを考えず、表層しか読まないようにしたのだけど、そのときに現実と幻想の交錯に関する仕掛けは前者のエンタメ作家がうまいときがある。
・この短編集の幻想は、太古や中世、あるいは密林などどこか遠くにある、あるいは昔というヨーロッパのロマン派がみつめた場所ではない。現代、近代と地続きですこしすれ違ったところ。並行世界というか、知的に構成された場所。なので、幻想の世界がこの現実よりよいとか優れているとか、近代批判を持つことはないし、そこに理想郷を見出したりはしない。まあ、不気味な得体のしれないところであったりする。作家はシュールリアリズムの運動にも接近していたというし、そのイメージをたくさん共有しているのだろうなあ。
・なので、ここにはメイトリアークとかトリックスターとか、神話的な人物はいない。存在することによって、世界と物語に豊饒さをもたらすような巨大な人物はいない。そういう神話とは無縁であるから。例外は「追い求める男」のジョニー・カーターくらいか。彼は豊饒さ・多産さを持ってはいないけどね。まあ、読者と同じくらいのちょぼちょぼでちゃらんぽらんの(しかし相当のインテリ)人物が状況の変化を受動的に受け入れている。その姿は、現代に縛り付けられている我々と同じなのかも。このあたりは、1960年代のJ・G・バラードに似ているかもしれない。
短編集でいえるのはこのくらいまで。「石蹴り遊び」はあまりに分厚いので躊躇して、ほかの長編・短編を読まずに、そのまま四半世紀。