odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

マヌエル・プイグ「赤い唇」(集英社文庫)

 1969年出版のプイグ第3作。この国への紹介は1990年とちょっと遅れた。文庫本は1994年。

 1947年に伊達男のフアン・カルロス・エッチェパーレの死亡記事が新聞に載ったところから始まる。享年29歳で結核にかかっていた(まだ抗生物質は高値で、庶民には買えない)。ベタ記事扱いのありふれたこと。記事を見たネリダ・フェルナンデス・デ・マッサという人妻から手紙が立て続けに、フアンの母ドニャ・レオノールに送られる。10年前に恋人で、ラブレターを交わしていたフアンの手元にあるはずの自分の手紙を返してほしいと願う。
 そこからフラッシュバックして、1937年のブエノスアイレスの恋人たちが描かれる。まあ、よくあるような初恋、痴話げんか、復縁、結婚、DV、出産、子育て、不倫、嫉妬など(ここには嫉妬の余りの殺意まである)。かつてこの国のTVで午後1時から放送されたどろどろしたメロドラマみたいなもんだ。あれと同じことが対蹠点にある別の言語としゃべる別の民族にもあることに感銘を受けた。われわれのようなちょぼちょぼの人間のやることは差がないなあ、と。
 書き方がおもしろくて、しばらくは書簡ばかり(こういうもったいぶった丁寧な手紙の書き方とモラルというのは電子化によって失われたのだろうな)。そのあとは、独白・告解・電話のやりとり・役所文書のパスティーシュ・台本・新聞記事・診断書・履歴書・検視解剖報告書・架空インタビューなど(ここのリストアップは「ブエノスアイレス事件」の解説を参考にした)。ふつうの文体だと、人物を動かすためにいろいろな描写(服装、行動、場所、室内、友人たち、過去など)を必要とするけど、このやり方だと時間と場所を自由に行き来するし、同じ出来事をそれぞれの人物の視点で語ることも可能。一番ちかいのはラジオドラマだろうなあ。さまざまなメディアや文体を複数の役者が語り合っているような。作者はもともと映画監督になることを希望していて、台本も書いていたというから、こういうかき方になったのだろう。内容はべたべたなメロドラマで陳腐であるといえるのに、書き方の面白さで楽しむ。この国の言葉にするとちょっと読みずらいけど、1969年にはアルゼンチンでベストセラーになったそうな。
 1937年というと、第2次大戦直前。でも、中南米はヨーロッパの政変に距離を置いていたので、戦争に参加したり巻き込まれたりすることはなかった。むしろヨーロッパから亡命者を受け入れた。時に文化の中心がここに移った(1940-50年代のブエノスアイレスの歌劇場にはなだたる指揮者や歌手が集まって、高水準の上演をいくつも行った)。そういうある夢のような一時期だった。タンゴを踊り、アメリカの映画を見て、ビールを飲み歩くような若者がいた。彼らも祖先を遡れば、数代前は旧大陸のどこかから移民か、あるいは先住民族であったりして、ナショナルアイデンティティがしっかりしているわけではない。移民元のグループ間でやっかみとか嫉妬とか敵視などもあって、一枚岩ではない。経済もまだよくなくて(1929年不況と、西洋資本が引き上げられたのが大きい)、若者の生活は不安定。それでも、恋愛欲と性欲はみんなさかんであって、町に出かけては、ナンパし、酒をのみ、うす暗闇で抱き合い、デートの約束をして、嫉妬にさいなまれるというわけだ。結核もちのフアンも体調が悪いのに、酒を飲み、煙草を吸い、デートにいそしむ。その生き急ぎがなんとも格好良い。ネリダもライバルが現れれば、蹴落とそうと必死だし、男を手練にかける手腕がだんだんうまくなっていく。
 なんともうまいなあと思ったのは手紙の扱い。ラストは1968年のほぼ現在で、ネリダの死亡記事。そのあと子供の一人が遺品を整理するときに、冒頭でネリダが欲しがっていた手紙を見つける。焼却炉に投げ込まれる。フアンの愛の言葉が断片となり、炉内を浮遊する。「……今は君の手紙を読みたびに自信が戻ってくる……」 冒頭に戻って物語の円環が閉じる。そしてフアンはそこで二度死んだ。なんとも感傷的な気分にしばらくふけった。残酷だなあ、でも甘美だなあ、見事。