odd_hatchの読書ノート

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ジェイムズ・ジョイス「ダブリナーズ」(新潮文庫)-2 WW1前、作者20代前半の短編。ダブリン生まれのジョイスは異邦人としてダブリンを見る。

2023/11/03 ジェイムズ・ジョイス「ダブリナーズ」(新潮文庫)-1 WW1前、作者20代前半の短編。当時のダブリンの生活様式は今と異なることに注意。 1914年の続き


 驚きなのは、習作ぽいのは最初の数編だけで、それ以降は完成した小説になっていること。19世紀の西洋小説の技術はすでに自家薬籠中にしていて、いかにもで書ける技術をもっている。そのうえで「Ivy Day in the Committee Room (委員会室の蔦の日)」のような解答編のないパズルまで創っていて、小説のアイデアの多彩さに驚く。
 タイトル「ダブリナーズ」ということでダブリンに住まう人たちをスケッチしている。その階層や職業や置かれた立場などの多彩さに目くらまされる。貧しい人から聖職者や実業家まで。こどもから老いた人まで。性も国籍も宗教も異なる人まで。実際の社会では見えなくさせられている人も、ジョイスの小説世界では扱いは平等だ。アイルランド人やカソリックや貧しい人々が理想化されているわけでもなく、イギリス人やプロテスタントや上流階級のひとたちがけなされているわけでもない。こういう「ありのまま」をとらえようとするのは難しい。都市の人々の多彩さを描いた人にはドスト氏がいるが、「理想化」「批判」を免れて平等な視点でみているかというとそういうことはない。他の作者では思い当たらない。ジョイスが可能だったのは、この人が家族・宗教・国家を捨てようとし、同じ言葉を知っているが所属意識がない異邦人としてダブリンをみているからだろう。(と言って、ジョイスコスモポリタンであったわけでも、インターナショナルと標榜したわけでもない。どこにも所属しない単独者としてあったのだろう。)

Ivy Day in the Committee Room (委員会室の蔦の日) ・・・ アイルランド国民党の大立者パーネルが亡くなった記念日(蔦は国民党のシンボル)。このところふるわない国民党の委員会室に人びとが集まる。雨降りなのも彼らの気分を滅入らせる。早々とパブにしけこんだひとりが瓶を届けた(のちに暖炉にのせた瓶がポーヒョンと音をたたて栓が抜けるからビールかな?)。ひとりがパーネル追悼の詩を朗読する。
(パーネル追悼の集まりのなかで別の物語が進行する。届けられたビールをジャック爺さんが呑めなくて失意する。届いた本数と呑んだ本数があわない。その理由は本文では明かされないので、解釈しなければならない。以下を参考に。

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爺さんに何か秘密があると思ったが、届けに来た少年(17歳)もだったか。これは一本取られた。)

A mother (母親) ・・・ ダブリンの中流から上流層の夫人がピアニストの娘を引き立てるための4夜の演奏会を企画した。いろいろ奔走したのだが、当日は客がはいらず、そのうえマネージャーは一夜の演奏会を勝手にキャンセルしそうになるわ、契約のフィーの支払いを遅らせるわと酷いやつ。母親の夫人は一人で抗議するも、のれんに腕押し。人びとは娘のピアニストのキャリアは終わっただろうと噂する。これはステージママのわがままを風刺するというより、イギリス人の興行主がアイルランド人のアイデアをだめにした策略とみなすべきか。前の章のアイルランド独立派の運動が退潮であることを重ねられるね。ナショナリズム退潮期の失意。

Grace (恩寵) ・・・ いつも泥酔し、傷を負うわ家に金を入れないわのぐうたら夫を改心させるために、友人たちが教会に行こうと誘う。ぐうたら夫は元プロテスタントカソリックに改宗したが、カソリックに悪態をつくのが趣味という屈折した男だった。友人たちの説得はうまくいきそうになるが、蝋燭を持つこと(カソリックの儀式に必須)に頑強に反対する。でもぐうたら夫はイエズス会の教会に行き、神父の説教を聞く。
 よくわからない。アンチョコにするためにググって見たが、ぐうたら夫の改心と救済をみる者もあれば、キリスト教の役割の限界を描いたと見る者もあれば、ジョイスの教会批判であるとみる者もある。初読のおれが結論を急ぐことはあるまい。よくわからない。

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短篇集『ダブリンの市民』の中の作品「恩寵」に見るジェイムズ・ジョイスの教会批判
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The Dead (死せるものたち) ・・・ 1904年のクリスマスの夜に、親族を集めたダンスパーティが行われる。ダンス、ピアノ演奏、詩の朗読等が行われて、主人公の大学教授のスピーチでなごやかに閉幕。酒を飲んだ男たちが帰宅になってドタバタを起こすが、みな幸せな気分になっていた。大学教授はホステスを勤める小柄な妻を抱こうとし、彼女が拒まないのを見て安心するが、いささか様子が違う。彼女は泣いていた。途中で止まった歌を聞いてある男のことを思いだしたから、という。教授は寝取られ男になったかを憤慨しそうになるが、妻の言うことには未成年の若い時に彼女にアプローチした17歳の少年のことだった。彼女の一家がダブリンに引っ越す前の日、すでに重篤な病に侵されていた少年が雨の中彼女の部屋をしたから眺めていたのだ。彼女は少年を拒み、1週間後に少年は亡くなった。
 そして教授の述懐。妻が胸に死んだ少年を抱いているように、この世もまた死者に包まれている。年を召した大叔母の顔をみれば、いずれ自分も喪服を着ることになるだろう。といってニヒリズムに行くわけではなく、妻の「顔がもはや美しくないとは自分自身にもいいたくないけれど、(略)死を賭してまで求めた顔ではないことは分った(P374)」。なので、「寛大の涙がゲイブリエルの目にあふれた(P375)」。ここらへんのマチズモ、パターナリズムは気に入らないなあ。静謐な、浄化された気分は美しいとは思うのだけど。
 あと「The Dead (死せるものたち) 」は、ここでは妻がひそかに思い出している死んだ少年のことを指すが、同時に、この裕福な一族のことでもあるようだ。パーティの会場になった大きな家はとても空虚。というのは雇用人や招待されたアイルランド人が一斉に帰っているから。地元の人たちに信頼されていない一族(プロテスタントのイギリス人)なので、この家に住まう人たちもいずれは消えてしまうのではないか。教授の「寛大」は妻や親族には向けられても、それ以外の人には広がっていないから。なので、「The Dead (死せるものたち) 」はアイルランド人からみたイギリス人全般でもあるのではないか、と妄想してしまう。
 というのも、「若い芸術家の肖像」「ユリシーズ」にでてくるアイルランド人のナショナリストは、個人のことと民族ないし地域共同体のことを切り離してかんがえられなくて、侮辱も幸福もコミュニティとのかかわりで捉えようとする。マイノリティであるとはそういうことなのだろう。でも、アイルランドの支配者であるイギリス人はナショナルアイデンティティは住んでいる場所に由来するのではないから、侮辱や幸福は個人(せいぜい家族や親族まで)に起きたことして考えてしまい、処理してしまう。民族や地域共同体と切り離されていて、それでいいとしている。小説にはいちどもナショナリズムは登場しないが、かえってマジョリティの傲慢さ・無知でいられる特別さなどに気づいてしまう。そこまでジョイスは意図したか、さて、なのだが、行間から見えてくるのはそういうことだった。

 

 でもこのあとの「若い芸術家の肖像」になると、ここで披露した小説の技術はすっぱりと投げ捨てた。19世紀風の小説の枠組みには収まり切れない創意ができていたのだね。「The Dead (死せるものたち)」の完成されてこれ以上継ぎ足しのできない完璧な作品と、未来を拓こうとする「若い芸術家の肖像」が同時に進行していた、前者のほうが先に完成したというのは信じられないよ。

 

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 2回目と3回目の読みの感想。

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