odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

マヌエル・プイグ「ブエノスアイレス事件」(白水社)

 1973年の第4作。
 タイトルからすると探偵小説みたいで、実際に犯罪小説のプロットを借りてそのとおりに物語が進む。とはいえくせもののプイグのことなので、見かけだけで判断すると足をすくわれかねない。

 主要な登場人物は二人。女性グラディスは彫刻家の勉強をして、ブエノスアイレスからニューヨークへ飛ぶ。そこで成功を夢見たが、貧乏暮らしは棒給生活者のそれを余儀なくされ、芸術家の感性は次第に鈍麻。いやそれよりも性的不満足のほうが彼女を苦しめる。誕生のときに母を失い、強姦未遂のトラウマで顔に傷を負い、不感症。それゆえにか、たががはずれたとき、年齢・職業・人種を変えた様々な男と寝るのだが、結局は不満がつのるばかりで、不眠症になる。もう一人は、男性レオポルド・ドルスコビッチ。こちらは父を失っていて、女だらけの家庭でちやほやされる。人並み外れた巨大なペニスの持ち主。角な性欲にもかかわらず、早漏と勃起不全で満足な性交を行えない。できるのは、オナニーに、暴力的な交渉のみ。彼も不能と暴力傾向のために精神分析医の治療を受けている。前半は二人が出会うまでの、半生をそれぞれに描写。だれだったか、20世紀文学に残された開拓地は性だ、といっていたが、まあその実例になりそうだ。彼らははためにはまあ、普通の社会人で、それなりに仕事をこなし、自立している。そのソフィスティケートされた外見の裏側の空虚や孤独や反社会性があって、具体的に性の不満足によって人々とのコミュニケーションが疎外されているというわけだ。戦争や家の束縛は闘争によって打倒し自由を獲得でるのだが、自由な境遇にあって経済的な満足を持ったとしても、それだけでは人間は自己実現できないというやっかいな病をもっているわけだな。
 さて、レオポルドの勤める新聞社が現代彫刻展を開くことになり、たしかパーティで知り合ったグラディスを推挙するところから物語は進む。ふたりは同棲するが、グラディスのわがまま(自分の性欲を満足させること、そして他人を支配すること)にレオは我慢ならない(レオはグラディスを満足させられず、インテリのグラディスにコンプレックスを持つから)。それは殺意に転化し(不満の蓄積が外部に向けて爆発する)、殺人計画を練る。そして、60歳前の別の彫刻家を関係を持ち、また犯罪の証言者として仕立て上げようとする。レオはふたりを空き地に呼び出し、計画を実行しようとする。
 ストーリーをまとめればこんな感じ。なぜ二人は出会ったのか、そのまま同棲することになったのか、なぜ10年も作品を作っていないグラディスが推挙されたのか、そのあたりはご都合主義そのまま。それはストーリーがオリジナルではなくて、通俗小説やテレビドラマの類型を借りているから。なので、ストーリーの面白さよりも、書き方を楽しむことになる。独白・告解・電話のやりとり・役所文書のパスティーシュ・台本・新聞記事・診断書・履歴書・検視解剖報告書・架空インタビューなど。クライマックスは、グラディス殺害直前のレオと別の彫刻家マリアの行動を追うのだが、そこに書かれるのは、緊張感あふれるドキュメントでもなく、彼らの心理でもなく、彼らの思い浮かんだどうでもいい印象。なので、レオはワーグナーの楽劇「ジークフリート」を思い出して勃起しているし、マリアは宇宙空間を経巡る電波に広大な空間をイメージし、グラディスは農夫が土地を耕し種を植えて収穫するのを心に浮かべる、という具合。他にも、レオとマリアの会話はレオの声だけが聞こえるだけ、とかレオが精神分析医に話すときもレオの声だけが聞こえるとか。通常の犯罪小説にありそうな憎悪や恐怖や懇願の感情は一切かかれない。でも、そういう通常の小説の文体がほとんどないにもかかわらず、彼らの心理が的確にわかるというのは、読者が作者と同じくらい通俗的でありふれたストーリーを知っているから。読者は錯書の書いた奔放なイメージ・心象風景に、通俗的な感情や心理を重ね合わせて、ポリフォニーを楽しむことになる。
 この小説の大状況にはペロン政権(本人は亡命していたが支持する党が政権をもっていたらしい)の軍事独裁がある。なので、ちらちらと見え隠れ。不審死を遂げた死体が空き地で見つかり、警察の拷問にかけられたらしいとか、登場人物の読む新聞記事(もちろんストーリーには何の関係もない)に極左グループのテロやゲリラの事件があったりする(またイスラエルアイルランドの紛争、アメリカその他の反戦運動ソ連と中国の反目もあるなど、1960年代後半は経済成長と政治の不安定もあったのだ)。そのような社会の不安定がダイレクトに登場人物たちの孤独や不満足や焦燥の原因とは書いていないが、そのような邪推も可能。