odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

アレッホ・カルペンティエール「時とのたたかい」(集英社)

 このエントリでは短編集「時とのたたかい」について。併録の「失われた足跡」は別エントリーで取り上げる。

ヤコブへの道 ・・・ 時は16世紀の宗教戦争時代か。元学生でいまは巡礼のフアンはインディオス帰りの男の話をきき、ペストで死にかけた運命の贖罪のために大西洋を渡る決心をする。途中は壊血病で死にそうな目にあい、キューバと思しき島では熱射が耐え難く、不潔で不衛生な都市では疫病に苦しめられる。イライラが高じて殺人を犯し、逃げ惑ううちに大陸に戻る船に乗船する。カソリックの反撃はすさまじく、新教徒のみならずユダヤ教徒までが迫害の対象になっているのだった。そしてフアンはふたたび西洋の都市を今度は「インディオス帰りのフアン」と名乗り、新大陸でできた安物を高額で売る商売をして、巡礼のフアンに新大陸の素晴らしさをほらまじりに語るのであった。歴史という一回限りの時間がベースにありながら、人の生や社会は循環する/停滞する時間を送っている。社会の循環/停滞する時間においては、人の個性は霧散飛翔し、誰もが神話の登場人物のごとき類型にみえる。そこには愚かしさと叡智が境目なく混在している。そのような時間は西洋にはなく、新大陸のものである。このあたりがまとめかな。ひどく古いものが作家の手によって、新奇に変容した。あと、西洋の知性は区別/差異を重視して、異端を迫害するのに熱心になってしまう。カソリックプロテスタントユダヤ教の対立などはようやく解消したようだが、新たな区別/差異を見つけて迫害してしまう。それはこの国でも同じ。閑話休題

種への旅 1944 ・・・ 19世紀初めのカペリャニアス侯爵家の当主マルシアスが亡くなり、館が解体されることになった。深夜、ニグロの老人が杖をふると、ときは逆行し、古い館は新しくなり、マルシアスは起き上がって、健康を取り戻す。若くなり、あの祝祭的な輝かしい少年時代をへて、幼児になり、胎児に。館は再び解体されて、草原となる。まあ、時間がさかさまに回っているのを、フィルムの逆回転のようにみるわけだ。ただ読者は、文章を読むという時間の進み行きから逃れることができない。齟齬は文体に現れ、エントロピーを拡大せずにはいられない文体の時間が物語ときしんでいる。

夜のごとくに 1952 ・・・ 明日朝、戦士として出立する青年。「わたし」は泣いている両親が悲しみと同時に誇りを感じていることを知り、フィアンセが闘いの意義に疑問を持つことにいらだたしい。章ごとに戦いは変わり、1)トロイアの戦いに出征するギリシャの兵士、2)新大陸の征服に参加するスペインの兵士、3)アメリカの領土鎮圧に出征するフランスの兵士、4)トロイアの戦いに出征するギリシャの兵士というように、時と場所を奔放に移動する。「わたし」はひとりであるようで、全員であり、時間と場所を変えて同じことが繰り返される。

選ばれた人々 1970 ・・・ <万物を産むおろち>がアマリワクに大船を作るように命じる。すべての財産をなげうち、完成したところで大雨になる。漂流しているうちに、別の神の命令を受けた5人(アマリワク、シンの老人、ノア、デウカリオーン、ウト=ナピシティム)が邂逅する。奇縁に驚くが、アマリワクは神が多数いて、似たり寄ったりだったことに落胆し、最初に作った人間が争うことに失望する。なるほど循環する時間、同じことの繰り返しは、われわれ読者の直線的・発展的な時間とは異なる。でも、その循環する時間、繰り返される時間で人間は賢くなるのではなく、「時間を無駄にしただけのことだったか」。ここがキモだな。


 循環する時間、複層する時間、神話と現実のあいまいな境、このあたりはいろいろなところで語られているから、とくにくわえることはない。こういう時間は物語の中身を豊かにするものではあるが、読者の物理現実の社会を変えたり、政治に反映したりするようなロールモデルにはならないことに注意。資本主義が資本の蓄積をだけを目的に拡大している社会で生きているとき、こういう循環する時間も複層する時間も神話も、現実では有効ではないからね。
 注目するのは、とても知的な書物だということ。中南米の地誌と歴史、その西洋のかかわり、植民地政策、さまざまな地域の神話、西洋の知識の体系、こういう「教養」が前提になっていて、ほとんど注釈抜きで描写されるので、読者はページを繰る手を休めて、調べることを要求される。それを省くとたぶん物語の重要なポイントを見落とす(というより、何をいっているのかわからなくなって睡魔に襲われる)。
 あと、「太鼓」をいう象徴。「聖ヤコブへの道」の主人公フアンは太鼓を担いで放浪して、ときに太鼓をたたいて金を得たりする。「選ばれた人々」のアマリワクも太鼓をたたいて族長を集め、漂流する暇な時間に酒をかっくらうか太鼓をたたくか。「種への旅」のマルシアスも幼年期には太鼓をたたいたものだろう。中沢新一のたぶん「虹の理論」で太鼓のことを書いていて、勝手にまとめると、太古は石、木、革などに直接働きかけることによって、それらの内部の「自然」を共鳴し、自然の歓喜を生み出すものだ、太古の音は自然と人の境をなくして、あるバイブレーションで震えながら一体化するものだ(一方、金管の角笛はその逆に自然と人間を分ける神の声、人を震え上がらせ、畏怖の感情を引き起こす)という。そういう自然の共鳴現象を引き出す太鼓を主人公が持つことがおもしろかった。彼らが太鼓をたたくことによって、自然の循環する時間が共鳴して、彼らを包み込むのじゃないかな。それは作家のテーマを象徴しているな。