odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

アレッホ・カルペンティエール「バロック協奏曲」(サンリオSF文庫) メキシコの新大陸の歴史と西洋の歴史が交錯する幻想交響曲でジャムセッション。

 18世紀前半と思しきころのメキシコ。巨富を得た鉱山主が、思い立ってマドリッド詣でに出ることになった。先祖をたどればスペインの生まれであろうが、メキシコ生まれメキシコ育ちの鉱山主にとっては故郷に錦を飾るくらいの意であったのだろう。大量の荷物に従者を連れてキューバにでる。ここは疫病の最中、従者を亡くしたので、代わりに黒人を雇い、大西洋を渡る。ここらへんはなんともゆっくりした筆致で睡魔に襲われた。

 それが一変するのはローマに到着してから。折からのカーニバルで、鉱山主モンテスマはアントニオとドメニコ、ゲオルグ・フリードリッヒらの音楽家と杯を交わす。酒と音楽が足りないというので、アントニオの導きで救貧院にいけば、そこには楽器の名で呼ばれる娘70人。手に手に楽器をとって、椅子に座り、アントニオが指揮棒をかざすと一斉にコンチェルト・グロッソを演奏するのであった。ドメニコはクラヴィコードに、ゲオルグ・フリードリッヒはオルガンに陣取り、黒人の従者フェルメーノが厨房の食器に鍋をもちだして、太鼓のごとくならしまくる。アントニオはヴィヴァルディであり、ドメニコはスカルラッティ、ゲオルグ・フリードリッヒはヘンデルの名であって、18世紀前半の人気オペラ作曲家3人がそろい踏み(実際に3人は1709年に一堂に会したという)。ここの喧騒、酒盛り、食事、女たちの踊りが素晴らしく楽しい。
 ここら辺から時間が何とも錯綜しだして、二日酔いの4人が救貧院の墓地にいくと、ギリシャ悲劇のオラトリオ作曲家イゴール・ストラヴィンスキーの墓があり、昨日卒中で死んだドイツ人の音楽家(ドラゴンや地の精、海の底で歌うセイレーンを登場させる不思議なオペラを書いた)の遺体がゴンドラに乗せられるのを見る。翌日には、ヴィヴァルディの新作オペラ「モテズマ」が初演。メキシコの王モンテスマの半生が歪曲されて、イタリア好みの愛と自己犠牲になり替わる。このオペラは小説発表のころに発見されたもの。youtubeで「vivaldi motezuma」で検索すると、音楽を聴けます。舞台上演も一部見ることができます。
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 複数の時間がある。メキシコ人鉱山主モンテスマのローマ旅行と音楽饗宴。これが小説の中状況にあたる。そこに、まず、西洋音楽史(作曲と演奏と楽器の改良など包括的な)があり、モンテヴェルディからストラヴィンスキーまでの400年の歴史が折りたたまれている。もうひとつは、演劇の歴史で、英国の悲劇趣味(シェイクスピアだ)からそれを揶揄するイタリアのコンメディア・デ・ラルテまで。こういう複数のヨーロッパの歴史がある。それに対抗するのが、モンテスマの持ってくる新大陸の歴史。ここでも、先住民族がスペインに滅ぼされるまで。そのあとのスペイン、ポルトガルなどからの入植者による植民地と奴隷制。こちらの話でもメキシコの入植者は西洋の貴族や商人たちには馬鹿にされるという差別の複層構造がほの見える。これらの時間が小説の中にあるので、読者はいくつもの時間と歴史を瞬時に想起できることが期待されている。
 そのような仕掛けのうえで、繰り広げられるバカ騒ぎを面白がればよい。最後にはなぜか、小説の時間は現代(ルイ・アームストロングが初めてイタリアで演奏したのは1934-35年かけてとのこと)にワープして、ルイのトランペットが歌うゴスペルに祝福されている。まあ、こういうごったまぜに、グロテスクな趣向が、「バロック」と呼ぶにふさわしく、アントニオやドメニコ、ゲオルグ・フリードリッヒらの実在の人物と架空の人物の交錯する珍妙な舞台を楽しむ。ゲオルグ・フリードリッヒが「これは幻想交響曲か」と叫ぶが、それもこの小説をよく表しているし、「ジャムセッション」と呼んでもいい。
 そこに大人の話があるとすれば、モンテスマの西洋への幻滅か。アントニオの新作オペラがメキシコの神話と史実をめちゃくちゃにしていることに腹を立てる。民族を共通していない神話であっても、その土地に住んでいることがモンテスマの自我の主要なところにあることを再確認し、それが西洋の自我とは相いれない/疎外されていることを目の当たりにするわけだ。だから、モンテスマの安住する先はメキシコという神話の土地になるわけ。そのテーマにおいておもしろいのは、彼の従者フェルメーノかな。キューバにいた黒人だから、当然奴隷の子供であったわけで、彼はモンテスマのように新大陸育ちであるけど、祖国は帰還できないアフリカであって、二重に疎外されている。安住の地は彼にはなく、それゆえにインターナショナルなどこにでも住めるという軽快さを持っている。ラストシーンが彼にあるというのは、西洋もメキシコも相対化できる存在は彼だけということなのだろうな。
 1974年作。サンリオ文庫には短編「選ばれた人々」も収録されている。