odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

大江健三郎「性的人間」(新潮文庫)

 「性的人間」新潮文庫と同じ内容であるが、自分の読んだのは新潮社版の「大江健三郎全作品 I-6」。新潮文庫には「セヴンティーン」「共同生活」が入っているが、それらは別エントリーで。

性的人間(1963年5月) ・・・ 大企業創業社長の息子Jは、仕事をしないで暮らせる高等遊民
(第1部)前の妻を自殺でなくしていいる。今の妻は映画を撮りたいというので、カメラマン、詩人、俳優(以上男性)に、画家(Jの妹)、彫刻家、ジャズシンガー(以上女性)をジャガーにのせて、(伊豆と思われる)漁村の別荘に行く。ウィスキーやジンを飲み、チキンを食べる。映画は「地獄」という題名。主にはジャズシンガーと俳優の裸が映される(無修正にすることをもくろむ)。こういう都会の自由人たちによる放縦な性の饗宴。とはいえ、漁村では深刻な不良のために姦通者をスケープゴートにしていて、Jの別荘もその騒ぎに巻き込まれる。朝の陽ざしは彼らの気分を萎えさせる。
(第2部)映画をつくるグループは解体。Jは痴漢行為に熱中する。老人の痴漢と詩人を志す若い痴漢と倶楽部をつくる。若い痴漢は「厳粛な綱渡り」という長編詩を一気に書き上げたい、そのための準備をしていると語る。準備ができたといった若い痴漢は、幼女を誘拐し線路上に放置したが、電車の入駅を見たとき、幼女をホームにあげ、自分は電車にひかれる。意気消沈したJは、妻から離婚を持ち出され承諾する。父に報告に行くと、アメリカの新工場立ち上げに参加しないかと持ち掛けられる。Jの決断……。

 50年前の小説であることに注意。第2部で若い痴漢の語る「痴漢の論理」は、作家の評論集「厳粛な綱渡り」のエッセイで同内容が書かれていた。まあ小説内で詳しく書かれているから、評論集を探して読むほどのことはない。Jにしろ若い痴漢にしろ、性行為にこだわるのは、そのことが抑圧や搾取の対象になって本来的な自己を見失っている「現代」の人間の自己回復の契機になるから。夫婦の婚姻制度から外れた性行為(乱交、男色、痴漢など)が社会や共同体の制約を破る行為となる。それは、社会の規範や法に触れるのであり、道徳やモラルに反するのであるから、性的行為に解放を見出す人間は少数。しかし突出した人間の行為が多数の認識を変え、社会や共同体の変革に至るのである、とまあそんな感じの思想。戦後はこのような人間性の解放という視点で性を取り上げる作家が多数いた。サルトルとかミラーとかロレンス・ダレルとかジャン・ジュネとか、フィリップ・ロスは少しあとか。こういう世界的な文学運動の一翼でもあったわけだ。
 この主張が意義をもっていたのは、昭和30年代であったから。当時、男女ともに恋愛・結婚・出産の自由は制限されていた。独身時代は禁欲が奨励され、結婚後の男性は性的に放埓であることは許容される一方、女性は出産の自由や権利を行使できるわけではない。そのような社会や集団による抑圧があって(第1部の漁村など)、女性やセクシャルマイノリティは差別を受け(ここにもそういう言辞は頻出)、男性マジョリティは好き勝手放題だった。そこにおいては、このような<冒険者>は勇気において共感を得られたかもしれない。
 しかし、この小説に限ると、性的人間は孤独で内省的であり、妄想の実現にあたって他者を目的ではなく手段として利用する(第2部の若い痴漢に顕著)。他者の権利に無関心だから、成果とパフォーマンスで評価されることはない。敗北し非難されるのは必然か。まあ、こういう単独の性的人間の冒険は変化を促さなかったが、セクシャルマイノリティの政治運動は変化を起こした。21世紀にはいってLGBTQの権利拡大が主張されて性の多様性を認める政策がとられるようになっている。そうなると、この小説の主題は時代遅れで、歴史的証言としてしか読めないなあ。
 もうひとつ。この小説で描かれる性的人間は例外なく自己評価が低い。自分がのけ者であり、他人に理解されないとみなしている。過激な行動はその不満やコンプレックスを埋めるかのようであるが、逮捕や制裁をうけることも覚悟している。自己処罰の衝動で行為におよび、自己破壊を目的にしている。そのせいか、彼らは社会や他人に対して侮蔑的で敵対的。その心情は、テロリストのそれに一致する。Jと「セブンティーン」の少年は、心理において変わるところがない。これもまた上記の思想に共感できない理由。
 さて、Jの前の妻はJの性的冒険のカミングアウトのあと自殺したとされる。妻の心理的な葛藤はよくわからないので触れないことにするが、この小説でも「自殺者」が出ていることに注目。ほかに「叫び声」「セブンティーン第2部」「日常生活の冒険]」「個人的な体験」「万延元年のフットボール」などでも、主人公の周囲には自殺者がいる。語り手=主人公も自分が自殺するのではないかと恐れている。このオブセッションは20代後半からおよそ10年ほど小説のモチーフになっていて、作家もそれにとらわれていたのかなあ。