odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

マリオ・バルガス=リョサ「継母礼賛」(中公文庫) 行為そのものの快楽ではなくて、現実の関係や妄想の中から浮かびあがる官能性。

 実業家リゴベルトは先妻をなくし、後妻ルクレシアをめとう。リゴベルトは尻の大きなルクレシアを女神のように崇拝し、ほとんど儀式のように愛撫する。家には先妻の息子アルフォンソ(フォンチート)がいて、継母ルクレシアの周囲をつきまとう。彼女の入浴をのぞき、薄絹をまとうだけのルクレシアに抱き付き、キスをする。ルクレシアのもとを二人の男が交互に頻繁に訪れ、密やかな、しかし激しい官能が絡み合い深まっていく。

 彼らの官能の図式はこんな感じかな。リゴベルトはフェティシズムの化身。尻、耳たぶ、産毛、歯茎、腋などの細部にのめりこみ、身づくろいの厳格な儀式を執り行い、排泄の快楽を堪能する。ルクレシアは接触と視覚、いずれも受け身になり他人の愛撫や視線にさらされることに快楽を持つ。フォンチートは何だろう、無意識の反道徳性というところかしら。ここらは彼らのモノローグに綴られていて、妄想と現実の境が消えて、生暖かい雰囲気にこもり切っている。その濃密さと言ったら。モノローグの連想飛躍は絵画の登場人物に自分を重ね合わせて、絵画の物語と自分の現況を重ね合わせていく。登場する絵画は次の通りで、後ろにはそれを見る/語る人の名を書いた。
ヤコブ・ヨルダーエンス「カンダウレス王寝室のギュゲス」:リゴベルト
フランソワ・ブッシュ「水浴後のディアナ」:ルクレシア
ティツィアーノ・ベルチェリオ「ビーナスとキューピットと音楽」:アルフォンソ
フランシス・ベーコン「頭部I」:リゴベルト
フェルナンド・デ・シシュロ「メンディエータ10への道」:ルクレシア
フラ・アンジェリコ「受胎告知」:ルクレシア
 この小説から、自分はミラボー伯「肉体の扉」を思い出した。フランス革命政府の重鎮が革命前の投獄中に書いたこのエロティックな小説では、作中人物がエロスの哲学を語りだす。そうすると、行為の即物性が消えて、官能と快楽がなにかとても崇高なものに見えてくる。こちらはそこまでの崇高さは生じない。というのは、決定的なことは書かれないから。そこに至るまでの経過、あるいはことが終えた後の倦怠が書かれている。ここが凡百のエロ小説あるいはビデオ、ゲームなどとの違い。行為そのものの快楽ではなくて、現実の関係や妄想の中から浮かびあがる官能性をみようとしている。細部の描写は直截であったりしても、全体として上品で、上質な心理小説を読んでいる気分になるのはそのあたり。
 決定的なことを書かないというのは、ルクレシアとフォンチートのインセクトが発覚した(ここでの父子の会話は秀逸)あと、ルクレシアの放逐があるのだが、放逐の際のリゴベルトとルクレシアのメロドラマを省いたところでも同じ。ドラマやクライマックスが一切描かれなくて、倦怠や呆然としている風景だけが流れる。
 作者の小説は「都会と犬ども」「緑の家」を読んだが、いずれも大作でとても長い。この小説は大きめの活字で170ページ弱というコンパクトなもの。もしかしたら、短編を書くつもりでいたらこの長さに伸びたのかもしれないけど、このサイズはとてもありがたい。あの大作には感嘆や畏怖することはあっても、敬慕や偏愛の気持ちにはなかなかなれない。この長めの短編だとそういう気持ちになれそう。

 ミラボー伯「肉体の扉」はこちら。
2017/03/04 ミラボー伯「肉体の扉」(富士見ロマン文庫) 1786年