事件に巻き込まれたり、事件の当事者を知っている女性のナラティブ。
マイディアレスト ・・・ 妊婦殺害事件の調査聞き取りの記録。父の存在が薄く、独占欲の強い母にネグレクトされ、勘気の強い妹にバカにされている、空想癖のある女性。疎外が強まるにつれて、猫にだけ感情移入していく。ロバート・ブロック「サイコ」のリメイク。
ベストフレンド ・・・ テレビドラマの脚本家を目指している女性。最終選考に残ったが、優秀賞になったのは凡庸な女性だった。すぐにつぶれるかと思ったのに着々とキャリアを積んでいる。一方、自分はプロデューサーの眼にとまったものの、うだつが上がらない。ついにつてがなくなって脚本家になることをあきらめたとき、ライバルの女性は世界的なデビューを果たす。始末をつけなければならない・・・
罪深き女 ・・・ 無差別大量殺人を起こした被疑者を知っている女性の告白。アパートにシングルマザー同士が暮らす。どうも男の子は母から虐待を受けているらしい。そこで女性は世話をしていたが、自分の母が神経質になって自分のことを束縛する。あるとき、男の子に母がいなくなればいいのにといった翌日に火事が起きて、母は死んでしまった。それ以来会っていないが、私のことがきっかけになったのかもしれない。毒親に支配されていることに反発できない女性。あるいは親にネグレクトされる男の子。ドスト氏の「虐げられる子供」の主題を被害者側から描く。とはいえ、最後にひっくりかえる。
優しい人 ・・・ 「いい人」が殺された。その関係者が被害者の思い出を語る。のにあわせて、さまざまな他人に「優しい人」の思い出が重なる。他人に優しい行為が本人には苦痛であったり、優しくされた側がおせっかいに感じたり。
ポイズンドーター ・・・ 有名女優に「毒親」の告白をさせるオファーがくる。それで思い出す母親との関係。ぎくしゃくするのは本人と母との関係だけではなく、故郷に残る女友達との関係。で、タイトルを見直す。
ホーリーマザー ・・・ ポイズンドーターの語り手の友人。女優の母が自殺した、本当は毒親ではなかったという記事が出て、動揺する。記事の出所をしるために、「ポイズンドーター」で帰郷は止めろと言われたにもかかわらず押しかけてくる。
ジェンダーに無関心でいられる男が読んで感想を書くというのは、おこがましそう。なので、大きな話で感想を書くことにしよう。
どれもコミュニケーションの不足で、支配や独占があれば逃げ出せばいいだろう、という極めて手前勝手な結論を出してしまうからだ。でも「毒親」の件で言えば、親と子の関係、とりわけ母と娘の場合では、逃げ出すこともできないような関係が作られている。さまざまな言葉と態度によって、娘に罪障感をもたせて、逃げることを悪と思わせているし、他人との関係を持たせないようにして第三者の介入ができないようにしていたり。そうなってしまう心情は、マジョリティである男には理解不能なところがあるので、本書は参考になる(なので、男が読むべき小説だな)。ウームとうなって、自分の男としてのふるまいが「正しさ」を実現していたのかを考えこむことになる。
文句があるのは、帯の「あなたの『正しさ』を疑います」というコピー。語り手たちが他人にやっていること、あるいは強要されていることに対して、行為が「正しさ」に基づくという認識。これは誤り。典型的なのは、毒親が支配する子供にむかっていう「あなたのためを思って」なのだが、そういう言葉やその奥にある(とされる)動機や意図に「正しさ」を認めるのは誤り。あくまで行為そのものとそれによる影響で判断しないといけない。動機や意図を「正しさ」の判断に使うのはダメ。支配や独占をする行為の結果で「正しさ」が決まるのだ。そういう視点では本書の語り手や関係者で「正しさ」を実行した人はいない。
ミステリらしく最後にはナラティブがひっくり返される。そうすると、支配されていると思い込んで事の正当性が疑わしくなり、一種のリドルストーリーのような迷宮に落ち込んだ気分になる。そうなるのはアイリッシュのいくつかの作品のように、語り手がひとりか親-娘関係の引きこもり状態にあって、第三者の客観化する視点がないせいであるというのがわかる。自然と「信頼できない語り手」になっているわけで、これは21世紀の小説の趣向になるのだろう。