odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

遠藤周作「沈黙」(新潮社) 西洋人が戦国時代の日本に来て、日本的なものに挫折していく。日本に幻滅・憎悪を感じる人もいる。

 これも約30年ぶりの再読(2007年当時)。かつては、フェレーリに導かれて、踏絵を行うロドリゴに痛切なほどの感情移入があって、文字とおり体が震えるほどの感動を得たものだった。とりわけ、深夜の踏み絵のシーン。ロドリゴが「痛い」というとき、その痛みを自分も感じたものだよ。

 「島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。」
遠藤周作 『沈黙』 | 新潮社

 さて今回の再読では、別の感想を持った。直前に同じ作者の「留学」を読んでいたので、まずこれは裏返された「留学」であるということ。「留学」ではキリスト主義者である日本人がフランスに行って、西洋に圧倒され挫折する物語だった。
 「沈黙」は、西洋人が日本に来て、日本的なものに挫折していく物語である。このような物語や感想は日本に輸入されにくい。どうしても日本を礼賛・称揚した文書が優先されて翻訳・紹介されるから。そのことによって人当たりのいい国・人民の日本がイメージになってしまう。そうではなくて、日本に幻滅・憎悪を感じる人もいるはずであり、そのような視点は日本に住むものにとって貴重だ。しかも、日本人の描く西洋人が西洋人からみて妥当ないし納得しうる人物に描けているかという問題もある(これも裏返された日本人による外国理解の可能性を提示している)。そういう点では、この小説は外(国)に開かれている。今のところ作者のほとんど唯一の傑作ではないかと思うのだが(わずかしか読んでいないにもかかわらずなんという不遜・倣岸)、それはこの「開かれた可能性」にあるのだろう。これほど外国人の評価を知りたい小説はない。
 その他、小説の主題に基づくいくつかの感想。
1.ロドリゴは踏絵の後にも、神を信じると言明している。その「神」はキリスト教の神であるのか、どのようなところで逸脱しているのか、イノウエのいうように日本的に変形された神であるのか。
ロドリゴが踏み絵をする直前に「神」はようやく現れる。それはより厳しい苦悩を継続することを決心するときに「然り」という内面において。そのような「神」は受難と復活の神と同じなのだろうか。「罪人」や「無資格者」と生きることを選ぶように要請する神なのだろうか。)
2.ロドリゴの独白は、常に神との対話で構成されている。彼はまず神と自分との関係を考え、そこから人々への関係を考察する。そこにおいて独白はなく、対話であるのだ。このようなあり方は西洋人に特有なものであるのか。日本の「本音と建前」という思考法と、神との対話という思考法はどのように異なるのか。
3.神の「沈黙」とは何か。単に奇跡の招来という期待を裏切るものなのか。現世で何らかの力を発揮しないことであるのか。上の「対話」において語りかけるものであるのか。
4.イノウエのいう「日本は沼。苗の根を腐らす」というテーゼは妥当なものであるのか。にもかかわらず外国由来の物が氾濫してきた歴史はどのように説明されるのか。あるいは日本的に変容されたものだけが、この国にあるのか。
5.キチジローの弱さは彼個人のものか、日本人に共通するものであるといえるのか、それは日本的なものなのか、キリスト教徒にもあるものなのか。
6.日本人は外国を理解できるのかという問いのさかさまである問い、外国人は日本を理解できるのか。また日本を理解しようとする外国人を日本人はどのようにみるのか。ロドリゴは日本人になったのであろうか。
7.この粗雑な感想に繰り返される「日本」は何を指しているのか。それは実在するのか。