odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ケン・スミス「誰も教えてくれない聖書の読み方」(晶文社) 「適当に面白くて、適当につまらなくて、どこから読んでもよくて、いつまでたっても読み終わらない本」を注釈なしで読んでみよう。

 こうやって聖書の解説書(のうち学術傾向の強いもの)を読んでいると、細部にこだわりすぎてしまう。要するに、聖書の本を読むと、次の3種類になるのだ。
一つは、これまで読んできたような専門研究者による学術書。ここでは聖書を読んでいることは前提のひとたちが19世紀からの研究史を踏まえて(それに考古学などの知識を加えて)、文献研究を行う。そうすると、脚注の脚注の脚注…という具合になって、いつまでも本文に届かないようになってしまう。
もうひとつは、聖書を長年に読んでいる人たちによる解説や注釈。ここでの問題は「イエスを語ることは自分を語ることだ」がそのまま書かれていること。ヒューマニスト、「神の国」運動の主導者、逆説を弄する犬儒学者、社会奉仕の組織者、「罪人」に寄り添う社会起業家…というような「自分」の見たイエスを語ることになる(そのうえ、この国の人が聖書を引用するときなぜか大正時代の文語訳を使うのだよなあ。荘重な感じがよいのかしら。おいらには意味が取れなくて難解なのだが。といって現代の口語訳のよいのはなさそうだし)。まあ、それはそれでよいとしても、描かれたイエスは自分の知っている範囲では福音書のイエスとは絶対に重ならない。
3番目は、まあトンデモ聖書読解。20世紀になってから「死海文書」だ「ナグ・ハマディ文書」だ「ユダ福音書」だのの新資料の発見もあって、勝手な読解の末に誤解と思い込みのトンデモ議論をする。「聖書の暗号」だの「死海文書の謎」だの「イエスのミステリー」だの、枚挙にいとまがない。
 そのうえで僕らにはまた別の誤解や思い込みが刷り込まれている。キリスト教がヨーロッパに定着したのは、だいたい6−7世紀くらいかな(ローマ帝国の外に普及したという視点で)。そして、ヨーロッパで普及したキリスト教が僕らのこの国に導入されたので、そのイメージやシンボルにとらわれている。まあ、イエスが金髪碧眼の背の高い白人青年男性であるというのがその典型。映画化されるとそういうイメージばかり。「ベン・ハー」「ジーザス・クライスト・スーパースター」「キリスト最後の誘惑」あたり。ダ・ヴィンチの「最後の晩餐」ですでにそのようなアイコンになっているから、根深い。だから、ロシア正教会のアイコンにみられる憂いに満ちたスラブ系の中年男性の顔付や中南米の教会にみられる黒人系の顔付などは最初の印象ではなかなか受け入れがたい。たぶん、2011年ごろのディスカバリーチャンネルの番組のように、アラブ系の顔付(褐色の肌、濃い黒顎ひげに眉毛、縮れた髪の毛、高い鼻、黒い瞳)でアラブ系の衣装を着けた小柄な男性であったというのが史的イエスに近いのだろう。それを最初に見たときに、強い違和感を持ったが、だんだんとそうであったに違いないと確信をもつようになった。
 最近ではこういう例がある。
イエス・キリストの復顔
http://matome.naver.jp/odai/2131491721795632101/2131491840995646003
BBC News | TV AND RADIO | BBC unveils hi-tech Jesus

 要するに、イエスに興味を持っても、そう簡単にはイエスに近づけない仕組みができている。とすると、できることはひとつ。この本の若いアメリカ人のように聖書を頭から読むこと。実はこれは相当に大変なことで、岡本喜八「肉弾」のセリフのように、「適当に面白くて、適当につまらなくて、どこから読んでもよくて、いつまでたっても読み終わらない本(引用は適当)」なのだ。とりわけ旧約聖書の後半の預言書と新約聖書の後半の手紙は、読み通すのが困難になるはず。それを読み通す気力と時間を持たないので、ケン・スミスに代わって読んでもらった。すると、聖書は思っていたよりもずっとブットんでいた。前後で矛盾していて、引用はめちゃくちゃで、同じ書の中でも一貫性がなく……。そのうえ現れてくるのは、ロマンス・アンド・アドヴェンチャー(は少なめか)、セックス・アンド・ヴァイオレンス、陰湿な差別と残虐な復讐(これらはいたるところで)、流れる大量の涙に人の血…。現代の視点(とりわけ人権の優位)からみると、受け入れがたい記述が延々と続く。
 はちゃめちゃさや支離滅裂さ、一貫性のなさ(とりわけイエスパウロの違い)などはいろいろな解釈で齟齬を取り繕おうとしている。教会やキリスト主義者の努力は買うにしても、この国のほかの宗教や道徳規範になれたものには、いささか無理筋と思うところもある。とはいえ、近代の合理性や論理性を信仰や教義に要求するのはおかしな話。むしろ「にもかかわらず」この宗教が世界宗教になり、いまでも多数の信者をもっている(時におかしな主張が生まれる)ことを肯定して、中身をしっておいたほうがよい。ハリウッド映画や英語圏のベストセラー、英語圏の有名人のインタビューなどには聖書の引用がたくさん仕掛けられているから、元ネタを知って老いたほうが理解しやすいし。
 いきなり聖書に取り組むのは最初に言ったようになかなか困難なので、まずはこの本から。この本のすごいのは、ハチャメチャを面白がるところだけではなく、解説本抜きで読んで聖書学の知見と同じことを発見していること(イエスの受難と復活が詩編とそっくりとか、新約の福音書は手紙の後に書かれたとか)。これはスゴイ。
※ 著者はイエスを大食いのデブではないかといっている。福音書にそういう記述があるからだ。弓削達「世界の歴史05 ローマ帝国とキリスト教」(河出文庫)によると、「大食いの大酒のみ」は古代パレスティナで不法の出生の子(すなわち私生児)のあてこすりなんだそうな。その線に沿った記述を福音書がするところはスゲーな。おなじく、人は「だれそれ(父)の子」と呼ばれるのだが、イエスは「マリア(母)の子」と呼ばれる。これも私生児に対する当てこすり・いじめ、との由。ユダヤ教徒からはそのような非難があったにもかかわらず、キリスト教団は姦通と解釈するところに神の創造の行為を見たという。以上は荒井献「イエス・キリスト 上・下」講談社学術文庫)にも書いてなかった情報。
 聖書の中では、創世記・出エジプト記ヨブ記、4つの福音書使徒行伝を読めばいいと思う(というか自分はその程度しか読んでいない)。 

 そういった直後に、学術書の多重ネスティングの本をいくつか紹介。手元にないので、読み返すことができないから思い出だけでも記しておきたくて。
 Q資料については
バートン・L・マック「失われた福音書」(青土社
 死海文書については
エドマンド・ウィルソン死海写本」(みすず書房)/高橋正男「死海文書」(講談社選書メチエ
 キリスト教史は
小田垣雅也「キリスト教の歴史」(講談社学術文庫)/高橋保行「ギリシャ正教」(講談社学術文庫)/森安達也「近代国家とキリスト教」(平凡社ライブラリ)/クラウス・リーゼンフーバー「西洋古代・中世哲学史」(平凡社ライブラリ)
 修道院という場所については
山形孝夫「砂漠の修道院」(平凡社ライブラリ)/今野國雄「修道院」(岩波新書
 イエスをどう見るかについては、よい本はなかったなあ。イエスよりも著者が前に来るから。とりあえず自分がとても感心したのは
荒井献「イエスとその時代」(岩波新書) くらい。


<追記 2015/4/21>
 ケン・スミス「誰も教えてくれない聖書の読み方」は聖書の面白いところを抜書きしている。そこにつっこみやおちょくりなどをしているわけだが、原文がどうなっているかは自分で探さないといけない。1500ページもあるような大著から探すのは大変なことだが、それをやってくれてネットで公開している方がおられた。リンク先からpdfをダウンロードできる。この労多い作業をされた著者に感謝します。
http://fugenji.org/~thomas/diary/documents/Ken_s_guide.pdf