odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

クリストファー・プリースト「スペース・マシン」(創元推理文庫)-2

クリストファー・プリースト「スペース・マシン」(創元推理文庫)-1


 上流階級ではないがマナーに厳しいエドワードは、あくまで19世紀のイギリス道徳にのっとって恋愛を進める。そこでは、性的な行為はほぼタブー。なので美しい女性アマリアに惚れても、いきなり抱きつくことはしないし、キスをするのをためらうし、着替えをするときには顔を背けるようにしている。そういう堅苦しさは、冒険が進みイギリスから離れるにつれて、次第に奔放になっていく。まず、チベットと勘違いした密林の中で、アマリアがコルセットを外すのを手伝ってくれといわれて下着姿の彼女の背後に回る。あまりの寒さに寝付かれないので、最初は互いの背をくっつけていたのを抱き合うようになる。火星の生活が長くなり、水が希少で着た切りなので、服が破れ壊れていき、互いに下着姿のままになるのをそのままにする。火星人の都市にいき、奴隷の住む共同宿舎に潜り込んだら、いっしょにシャワーを浴びる。なるほど道徳は内面から生まれる自発的な制約なのではなく、社会性から生まれて内面化されるものなのだね。ようするに、彼らを監視する社会の視線が消えると、道徳よりも感情のほうが優先されてくるというわけだ。もちろんここには都市のような近代社会は窮屈であって、より自然に近い生活のほうが本来的な人間存在があらわになるというルソー的な考えも反映しているだろう。イギリス社会では女性アマリアが男性エドワードをデートに誘うのは、まず起こりえないこと。だからエドワードは舞い上がったのだが、火星に来てからはアマリアの尻に敷かれるようになっていき、それを自然と受け入れるというのも、19世紀末および執筆時の1970年代のイギリスでは珍しいことではなかったかしら。ボーイ・ミーツ・ガールの素朴な話も同時進行しているのだが、恋愛のイニシアティブはアマリアにあるのだよね。でも、地球に帰り、イギリス道徳の社会的な視線を感じるようになると、アマリアは後ろに引っこみ、エドワードを立てるようになる。この社会の視線なんかで制約される恋愛や社会関係の変化には注意を払って読む必要がある。

 さて、火星の怪物による地球侵略計画を察知し、二人は先遣隊の宇宙船にひそかに乗り組み、地球に帰還する。着陸地点はイギリスで、なんと大科学者の生家に近い。ご都合主義? なにそれ、おいしいの? という作者のお惚けがきこえるよう。
 怪物はさっそく歩行機械を組み立てて、地球の制圧と人類の奴隷化と植生の火星化を開始する。熱戦砲を積み、防御システムを備えた怪物の侵略兵器にイギリスの軍隊は歯が立たない。即座に数百、数千の死者が生まれる。帰還した二人はいたるところで死者を見ることになる。ここの残虐描写ないし死者の描写は衝撃的。エンターテイメント小説では死者は表立って描かれない(せいぜい目撃者の会話で暗示されるくらい)。しかしここでは人は殺され、死体が転がり、火災が家を焼き尽くす。もちろんここにロンドン空襲を想起してもいいし、ベトナムや中東の戦争の無差別爆撃が毎夜テレビで放送されていた1970年代を思い出してよい。そして死者を描くことはこの小説において必然であることにも思いを致すべき。青年と美女は火星でも怪物が火星人を殺戮し、血を収奪しているのを目撃していた。その光景に彼らは同情や憐憫を感じるのだが、積極的に介入するわけではなかった。しかし、彼らが同朋の死者を見ることによって、怪物殲滅の意欲が生まれ、愛国者となって戦いの舞台に上ることを決意させる。もうひとつは死者を描くことで、この小説が難民を主題にしていることに気付く。家、家族、故郷を奪われること、それを奪還することが、青年と美女の個人的な、社会的な目的である。その克服において死体は避けては通れない、つらいが必須のできごと。
 そこにおいてウェルズ氏という哲学者とであう。彼はアマリアが秘書をしていた大科学者の知り合いであり、彼らが不在中にタイムマシンを使って、十万年後の世界を見聞した記録を小説にして発表した当人だったからだ。ウェルズ氏は大科学者の助手もしていて、秘書といっしょにタイムマシンの製造にとりかかる。時間を旅するための水晶状物質を十分に入手できなかったので、タイムマシンは空を飛ぶスペースマシンとして完成した。三人はベッドをシャシーにしたスペースマシンに乗り込み、化物の機械との戦いを始める。
 この小説は19世紀末のある重要な小説のパスティーシュになっている。この感想では隠しておいたけど、こうやってサマリーをみれば明らかだよね。それがわかると、がぜん興味がわいてくる。そのためにも、あわせてその元の小説とその映画も見ておいたほうがよい。1950年代のと2000年最初のゼロ年代に作られた2本。後者は評判がよくないが、伊藤計劃の評価と同様に自分はよい映画だと思う(うっとうしいところもあるけど)。
 ただし、設定だけでなく、描写と展開も19世紀風なのんびりしたものなので、慣れていないと520ページを読むのは大変かもしれない。