odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

クリストファー・プリースト「ドリーム・マシン」(創元推理文庫)

 1985年、イギリス。ウェセックスに集まった39人の科学者はある実験に取り掛かっていた。心理学者の発明した投射装置を使って、全員の意識を150年後の世界に投げかける。それは、「実際」の2135年の社会を構成し、そこから情報を持ち帰ろうとするものだった。すなわち、その当時、人口爆発と飢饉は破滅的なレベルに達していて、食料とエネルギー源を巡る世界戦争の危機が生じていたからだった。150年後の未来があるのであれば、それらの危機を克服したはずであり、その方法を未来への投射で知ろうというものだった。ただ、39人の意識が投射された「未来」は彼らのエゴを満足させるユートピアになっていて、問題解決のための手がかりは全く得られない。しかも研究者は「未来」に満足して、帰還しようとしなくなった。

 1976年初出。このときは、「夢と現実」は厳然と区別されていて、自由な行き来をすることができない。なので、心理学者と投射装置という面倒な手続きを経ないと、夢と現実を行き来することができない。今なら、夢と現実の間にコンピューターの仮想現実を持ってくることで、夢と現実の間を埋めることができる。そういうのを構想するには、1984年のウィリアム・ギブソンニューロマンサー」を待たねばならない。そう考えると、ネットも構想段階だった1980年代のギブソンの想像力はすごかった(すごすぎてリアルタイムで読んだ自分にはちんぷんかんぷん。ようやくイメージできるようになったのはその10年後だもんな)。
 さて投射装置は、機械仕掛けのコクーンみたいなもので、被験者は裸になって電極を身体につける。重要なのは頭につける電極で、それを通して心を機械につなぐのだ。投射されると、人格は2135年の未来に行っていると思うが、そのときは身体感覚をもっているし五感も働くしで、被験者は現実と夢を区別できない。というか、行った先の仮想の未来を現実と思い込んで、リアルな身体で「現実」の生を営んでいると認識している。ここらの問題意識はギブソン以後のサイバーパンクでも継承されている。高度に設計され構築された仮想世界と現実との差異はないのだ。すくなくとも、人格及び世界内のキャラクターとの交通からは「現実」であることを疑わせる証拠はないし、証明もできない。生物である人の存在は、そのようなあいまいさ、根拠なしの認識に基づいているものなのだ、継続する一貫した人格や個性というのは幻想なのだ、ということになるのか。ただそれは、この物語を鳥瞰して眺めることのできるメタ視点にたったときだけわかることで、内部にいる人格には夢と仮想と現実の区別はつかない。
 さて、実験はクローズドなうちわで行われてきたが、成果が上がらないので外部の研究者を一人加えた。この野心と嫉妬に燃える強引な個性が実験の仕掛けをひっくり返そうとする。すなわち、投射された未来において同じ投射装置をつくり、今度は2135年の人格を1985年の過去に投射してこのような現実になっている理由を探ろうというのだ。この計画は秘密に、彼一人によって行われ、36人の記憶喪失と人格破壊をもたらしてしまう。この野心的な研究者と同棲していたことのある女性研究者はふたたび2135年に戻ろうとする。すなわち彼女は「未来」においてかけがえのない恋人を得て幸福であったから。彼女は現実で葛藤のうちに生きることより、仮想世界で夢見ることを目指す。
 表面上はこのような物語。
 ただ、恐ろしいのは、2135年の人格が投射した1985年が実験を開始した「現実」であるかどうかがはっきりしないこと。季刊した1985年は投射によって仮想された世界であるかもしれない。それは実験が開始された1985年の現実に似ているが、少しずれがある。そうやって疑いだすと、女性研究者が戻った2135年の未来もそれまでの未来と同じであるかを疑いたくなる。もしかしたら、研究者が帰還するごとに別の現実が生まれているのではないか、未来も投射ごとに増殖しているのではないか。どこがベースになる現実であるのかわからなくなる。これは恐ろしい事態だ。「未来」で生きることを決意した二人の研究者。それはユートピアに生きることになるのだが、もとになっている身体の面倒はだれがみているのか(投射中コクーン内にいる被験者の身体は生理的な代謝をしているので、髪は伸び垢じみてきたりしていて、それは投射された未来の身体にも反映している)。複数の未来があると考えると、身体はどこかで朽ちていて、この悠久のユートピア、愛の天国はいずれ破たんするのではないか、と思うのだ。
 それはメタ視点にたったときに感じる恐怖。プイグ「蜘蛛女のキッス」のラストシーンみたいに、二人は夢だか仮想にあるのだが、そのとき「現実」「生」を実感するのは、波乗りに講じることによって。巨大な波が定期的に押し寄せるウェセックスの港町で、エンジン付きのサーフボード(かジェットスクーター)にのる。このような波乗りは機械を通して自然を体感するもの。機械を媒介することで身体と自然の交通が生まれ、その時の感興が「現実」「生」の充実になるというわけだ。この見方も、バーチャルリアリティなんかでは継承されている。まあ、他の生物が身体と自然は分かちがたく交通しているというのに、人間は機械や道具を経由しないと自然とこうつうできないというなんとも「不自然」な認識方法をもつようになったのだ。