odd_hatchの読書ノート

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ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(完訳版)」(中公文庫)-3 ヨーロッパは南国にユートピアを見て、ロビンソンは差別と収奪の植民地を自慢する

2020/05/18 ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(完訳版)」(中公文庫)-1 1719年
2020/05/15 ダニエル・デフォー「ロビンソン・クルーソー(完訳版)」(中公文庫)-2 1719年

 

 不思議なのは、中南米を舞台にしているのに、でてくる動植物がヨーロッパでありふれたものばかりであること。ロビンソンは人間を襲う大型哺乳類を恐れるが、その名を呼ばない。ライオンのようなものと想像している(南アメリカにライオンはいない)。珍しい動植物に好奇心を向けることもない。これはすなわち、執筆時期(1719年)には博物学の流行がまだ始まっておらず、博物図譜も出版されておらず、イギリス国内にいては参照できるデータベースが皆無だったことに他ならない。
荒俣宏「大博物学時代」(工作舎) 1982年
荒俣宏「図鑑の博物誌」(工作舎) 1984
 クック船長の世界一周や異国の博物学図譜の出版が始まるのは、本書がでて50年以上後になってから。 たぶん本書がその行動を後押ししたに違いない。

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フライデーとの生活 ・・・ 3年間の共同生活。農業、炊事などの技術を伝授し、英語を教育する。もっとも重要なミッションはキリスト教化。あいにくフライデーは暗黙の前提をもたないので、「なぜ神は悪魔を殺さないのか」と単刀直入な質問をしてロビンソンを絶句させる。結局、理性や理屈で説明できず、情で納得させるしかない(俺は、正義や悪や倫理の根拠を人間の外におく思考が限界を露呈したのだと思う)。ロビンソンはフライデーを頭がよく、素朴な偽りのないまじめさと評す。またフライデーが彼の故郷にロビンソンが来て、技術や知識を教育するように頼む。
(ロビンソンはフライデーの父にもマスターとして常に上位にたつ。フライデーの態度はヨーロッパの植民地化を肯定し、隷従を正当化する論理になる。われわれが仕向けたのではなく、彼らが望んだのだという屁理屈。難破船の乗員が助けられているのを知ってもロビンソンは自分が食われることを心配する。言葉の通じない<他者>には猜疑心を持ち続ける。その裏返しが蔑視と隷従の強制になる。)

戦闘 ・・・ 二人以上が乗れるカヌーを作り脱出の機会をうかがう。3隻のカヌーが来て、食人の祝宴を張ろうとする。生贄が白人(後でスペイン人と判明)であることから、ロビンソンはフライデーと一緒に攻撃。ほぼ全員を殺戮。
(過去の決意も、スペイン人による先住民の虐殺も忘れ、白人救出のためには殺戮をいとわない。)

フライデーの父 ・・・ スペイン人と蛮人(フライデーの父)が加入。島の脱出と難破船の乗員救出を計画する。半年かけて農地の拡張を行い、十数人分の食糧を確保する。スペイン人とフライデーの父を乗員救助に向かわせる(食人の持ってきたカヌーを使用。その後の顛末は最終章で簡単に触れられている。第2部に詳しく書かれたらしい。)。
(フライデーが父を見つけ介助するする姿にロビンソンは感動する。イギリスの中産階級は家族でもよそよそしさをもっているから。)

帆船上の反乱 ・・・ 突然、英国船が来て、ボートで上陸した。3人の捕虜がいるらしい。ロビンソンは捕虜を救出し、船で反乱がおきて船長他数名が処罰されるところだったことを知る。ロビンソンは船長と取引。助ける代わりに、島の全権限を掌握、イギリスに無償で帰還させること。船長は承諾し、彼の部下ともどもロビンソンの配下になることを誓う。

反撃 ・・・ まず捕虜を連れてきた反乱者を鎮圧することにする。夜半に彼らをおびき出し、待ち伏せし、奇襲して捕虜にする。ロビンソンは死者を出したくないと希望していたので、反乱の首謀者だけを射殺。
(圧倒的多数の反乱者を少数者が鎮圧する。その際の上のような戦術がみごと。また、ロビンソンは船長の上の権力者としてふるまい、反乱者の前に姿を現さない。見えない権力があると反乱者に誤解させることで、船長の権威を高める。こういう組織はイギリスの植民地経営でも使われただろう。)

島を去る ・・・ 味方を増やし、船を奇襲。首謀者を射殺し、船を制圧する。船長の考える悪質な反乱者を島に残すことにし(イギリスに帰れば死刑なので、彼らは積極的に応じた)、ロビンソンは船長の服を着て島を脱出。ときに1686年12月19日。実に27年の孤島暮らし。1687年6月11日にイギリス着。

リズボア行き ・・・ イギリスには係累は一人も存命ではなく、金もなかったので、リズボア(たぶんリスボン)にいきブラジルの農園のその後を調べることにする。農園は順調に拡大し収益を上げていた。ロビンソンが所有を主張すると、認められ、利益を分与された。
(という法手続きが国家を越えて行われ、個人の所有権がヨーロッパ人の支配するところではどこでも認められる。法の支配、契約の有効は情や義理よりも優先されるわけだ。また決済は貨幣で行われ、異なる貨幣の交換もレートが決まっているし、遠く離れたところの利益が地元の銀行で決済される。そういう金融システムもできていた。)

ピレネー越え ・・・ 海路で帰る気がしないので、マドリード経由の陸路にする。雪道のピレネーを越えるときに、オオカミとクマに襲われる。なんとか撃退。
(フライデーはクマをみて活気づき、「みなを笑わせる」といって、クマにちょっかいをだす。フライデーを追いかけるクマはダンスを踊るよう。フライデーは従順とまじめさが重要なのではなく、このような笑いをもたらすトリックスターだったのだ。植民主義者ロビンソンにはフライデーの特質が見えていない。)
トリックスターとしてのフライデーを書いたのがミシェル・トゥルニエ「フライデーあるいは太平洋の冥界」とこのこと。未読。)

      

旅の終わり ・・・ 高年になってもう一度島を訪問している。それが「ロビンソン・クルーソー」第2部(岩波文庫に邦訳あり)。その後は、しあわせにくらしましたとさ。

 

 ロビンソン・クルーソーの物語は、冒険譚(解説によると17世紀末からノンフィクション、フィクションの航海記がたくさん出版されていたとのこと)、近代的実業モデル(数少ない資産を有効活用して生産を上げ利益を獲得していく)、放蕩息子の回心の物語として読める。なるほど、神の信仰が薄く(しかしカソリックの異端審問には反対:当時はまだ残っていた)、父や共同体の道徳に従わない男が徳を積まないために罰せられて、信仰を獲得するに至る。そして異教のものに改宗をせまる。こういう道行きはクリスチャンとしてのビジョンの発見と信仰の道に至る物語になる。それが近代の小説になるのは、ロビンソンの内面の変化が小説の主題(のひとつ)であるからだろう。バニヤンの「天路歴程」1678年と1684年はデフォーの小説のわずか30年ほどの違いしかない。「天路歴程」もまた信仰獲得の物語。バニヤンでは主人公の内面の葛藤はかかれず、外からの誘惑をいかに克服するかだけが問題になっていた。そこにおいて内面を描いたデフォーは新しい。
 近代ビジネス家のロビンソンに対しては、章ごとのサマリーで感想を書いたように厳しい見方になってしまった。かつてはフライデーを従者にしてからの島からの脱出にも手に汗握ったのであるが、今回は冷ややかになってしまった。そこにロビンソンの驕りや偏見をみることになったからだろう。この小説と同時に進行していたイギリスの植民地経営のひどさをみることになったから。
 冒険物語の前半はとてもおもしろい。エドガー・A・ポー「ナンタケット島出身のアーサー・ゴードン・ピムの物語」スティーブンソン「宝島」ハガード「ソロモン王の洞窟」ドイル「失われた世界」などの後継者があるし、21世紀になっても作者を知らない「火星の人」(リドリー・スコットの映画「オデッセイ」の原作)のように再話されている。孤島でのサバイバルと脱出は人の心を躍らす物語の祖型なのだな。

              

 別の読み方もある。「ロビンソン・クルーソー」は売れた。世紀を越えて読み継がれ、影響される読者が多数生まれた。堀田善衛ゴヤ 2」(朝日学芸文庫)から引用。

「こういう社会(17-18世紀の西洋絶対王政社会)の、上層部(王侯貴族、宮廷)の下降志向(庶民の風俗をマネする)は、一種の、情熱的な蹟罪本能のようなものかと受けとれるほどに、いわば厚化粧をした上での、なりふりかまわぬ墜落希求、あるいは自らを卑賎化したいという情熱、極端な場合には被凌辱を希求するというところまで行ったものであった。/ さらに、時代(18世紀後半)の思想がこの傾向に拍車をかけた。たとえばモンテスキューの『ペルシャ人の手紙』や、ヴォルテール支那思想についての思考などは、いわば現存する西欧文明に対する批判と自己否定を含むものであった。またベルナルダン・ド・サン=ピエールの『ポールとヴィルジニイ』、あるいはダニエル・デフォーの『ロビンソン・クルーソー』なども、純潔にして罪なき文明を西欧以外の、南海の孤島に求めたりしている。それは一文明の自己否定を意味するであろう(P60-61)(カッコ内は引用者による補注)」

 なるほど18世紀後半には博物学が流行して、異郷(エジプト、ペルシャ、南海など)の風俗が紹介されて、ヨーロッパ人の人気になった。そこにあるエキゾチズムをじぶんはこれまで皮相なものとみてきたが、近世から近代に大転換する「革命」を準備する大きな潮流のひとつであったわけだ。

ルネサンスの時代が、たとえばチェーザレ・ポルジアに見られるように、貴族たちは王に、あるいは教皇になろうとし、賎民たちは、たとえそれが僧称だろうが何だろうが貴族の位階を称号しようとしてありとあらゆることをやらかした、上昇志向の社会であったとすれば、一八世紀は一種の還付期、上層部、つまりはのぼり切った連中が山頂の空気の薄さに耐えかねて、濃い、しかし埃だらけの巷の空気のなかに一戻りたいという、下降志向の社会となっていたものであった。/流行の中心であり、女王であったマリー・アントアネットでさえが羊飼いの少女に化けようというのである。革命は、社会の上層部によって、まず用意されたものであった。/革命は支配階級の容認によってはじめて成就するというレーニンのテーゼを掌に見るようなものである(同P59)」。

 フランス革命では、上層部の下流志向で下流の庶民が革命や社会変革の意思を示したが、スペインでは下流の市民は保守的であって変化を極端に嫌った。その結果、フランスで起きた革命は起こらず(すなわちナショナリズムは誕生せず)、ナポレオンのスペイン侵攻の際に抵抗運動、独立運動となってナショナリズムが発生した。歴史の妙というか、なんというか。