odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

佐和隆光「文化としての技術」(岩波同時代ライブラリ)

 もとは1987年。1991年に文庫化されたので改訂した。読み返すと、このあとの著作の基本的な考えがほぼ出そろっている。一方、80年代は進行中のできごとであったので、彼の予測通りに進行しなかったことが多々ある。

1 近代化と技術革新 ・・・ 1945年以降のこの国といわゆる先進西側諸国(懐かしい言葉!)の経済成長では、技術革新が不可欠。それは、国家の予算配分に影響を与え、企業の研究開発投資を増加させ、人々の生活に新規な工業製品を取り入れさせた。その結果、「文化(ファインアートや文芸作品だけではなく、生活慣習とか風俗とか社会通念などを含む幅広い概念)」にいかに影響を与えたかに注目する。
2 マスメディアとマイ・カー ・・・ 1960年代の注目する技術としてタイトルをあげ、もうひとつコンピュータを重視する。この利用によって社会や経済を技術的に工学する期待をもつようになった。それはケインズ主義の国家による経済介入や公共サービスへの投資を要求することの基本思想となった。なぜなら、コンピュータ(当時の巨大な)を独占的に利用できる国家は市場よりも理性的であり誤りを犯さないと思われたから。でもって、国家の介入により「正義」を実現することが求められた。
3 束の間の反技術 ・・・ 一方で、科学技術と経済発展は社会問題を引き起こす。公害、都市化、劣悪な公共サービス、セイフティネットの不在など。そこから「反科学」の思想と運動が開始される。しかし、これは新しいロールモデルを作ることができなかったこと、運動自身が解体したことで短命に終わる(と1987年には記述されたが、「反科学」はファッションとして21世紀にも残っている)。
4 技術の復権 ・・・ 福祉国家、大きな国家への転換に失敗したのは、1)オイルショック、2)スタグフレーションが主な原因。これらによって原料の高騰、需要減が起きたために、巨大プラントなどの大規模な生産による効率性向上という戦略がこの国では無効になる。それでもこの国が諸外国とくらべて優位であったのは、1)エネルギー資源を国内でまかなえず国内のエネルギー産業への配慮をすることなく廉価な原油を変えたこと(それまでに石炭産業はつぶしていた)、2)軽薄短小の技術化が進んだこと、など。でもって、1980年代に「科学技術立国」政策が建てられた。お手並み拝見(というのは執筆当時の見解。現在2012年から見ると、国家指導で開発を進めようとしたロボット、第5世代コンピューター、バイオテクノロジー、新素材などは事業化しなかったなあ。それよりも民間で開発した事業のほうがまだ成功しているみたい)。
5 高度情報化社会を彩る「文化」 ・・・ いくつかのことが書かれていてのちの本ほど整理されていない感じ。1)コンピュータほかの情報機器の導入で情報の差異が利益になる。そのとき、情報のフローが早いことが重要(別の言い方をすると、情報のストックを重視する教養主義は命脈を絶たれる)。でも著者にいわせると、情報を分析して新たな価値を追加することが重要で、そのためには情報のストック(および教科書)は必須とのこと(さっこんの放射線についてもフローに振り回されるが、ストックがないのでおかしな判断をする人が多数出現)。2)70年代の経済危機は国家が市場に介入することの失敗であるという認識を生み、市場の自由競争がより効率的であるという政権を生むようになった。そのとき、正義は国家や組織が実現するものではなく、個々人の情念で発現するものであると考えられるようになる。でも、倫理的空白の時代(70-80年代)を生きたものにはこの「正義」が形成されていない。
6 技術革新のもたらす「不調和」 ・・・ 80年代で製造業からサービス産業への転換が必要。イギリスは情報産業へ、アメリカはソフトウェア開発産業に転換した。では、この国は、というと成長性のあるサービス産業を創出していない。あと新たな科学技術の担い手が銀行、保険などの情報産業に就職すること、および「産業の空洞化」の危惧。
7 さて何処へ ・・・ リベラリズムへ。効率から公正へ、競争から協調へ。


 著者によると、歴史は保守とリベラルとが交互に振り子のように動くという。もちろん保守やリベラルの意匠はその時々の時代で変わるわけではあるが。大雑把には、保守=新古典主義経済学=市場万能=個人の利益最大化が社会にとってもっとも好ましい、リベラル=ケインズ派=市場コントロール必要=機会、仕組みが公正であることが重要であり、個人の利益最大化のための運動に制限を設けるべき、というような区分になる。必ずしも政治的な保守、リベラルの区別とは厳密には一致しないが、これらの政権の行う政策はおよそ経済学の保守あるいはリベラルな提言と一致している。それらの政策がなされる背景には、その時代の経済成長や社会の成熟などが反映されていて、保守またはリベラルの行き過ぎと思われる政策に反動するしかたで、別の極に揺れ動いていくということになる(社会主義および共産主義の政治や経済学が一顧だにされないのは、政権をとったり、提言をする能力に欠けていたと判断するからだろう)。そのような見方からすると、1950年以降だいたい10年周期くらいで保守とリベラルに交代していったということになる(1970年代のニクソン時代も本人は反共であっても、政策はリベラルということになるのだなあ)。
 著者が問題にするのは、とくに1980年代の保守政権の行った政策において、マネタリズムや合理的期待形成派などの提言した政策の反社会性や、経済大国に日本がなったこと、なによりも金銭欲を充足することが美徳とされたことによって、「倫理的空白」の時期が生まれたこと。それまでの権力欲や名誉欲は他者の視線を意識せざるを得ないから偽善的にでも、福祉など社会的弱者への対応は考慮されていたが、金銭欲にはそのような視線がないために福祉や協同を無視することになる。この考えは1987年のものであり、その後1990年代の(一応)リベラルな時代があっても、不況が継続し、新しい社会への改革が進まないままであったので、金銭欲の充足を国民が全面的に発露することはなくなったにせよ、他者への無関心ということは拡大している。
 その一方で、NPOやボランティアの活動は広がっていて、倫理的空白を乗り越えようとする意識もまた生まれつつある。ごく少数の人にしか、莫大な資産を一代で蓄えることは不可能であるようになった(その代償として会社が生活援助をしてきたが、そのやり方をとることができなくなった。法人税率を下げれば可能になるかもしれないが、それは長期雇用を前提として始めてペイできるのであるから、これだけ労働者が流動化するときにあってはコストが合わないのでどこもやらない)。われわれは、「定年」ということに関係なく自分のできることを社会に行い、社会の人々と助け合って生活するというスタイルとコミュニティを作ることになるだろう。
 以上のような希望を初読のときにもった(2005年2月)のだが、どうも進み具合はよくない。そのあとの不況に対して適切な手を打たず、閉塞感が漂う。せめて、円高とデフレを解消する施策を取るべきなのだ。(以上は2012年8月に書いた。2015年の現状にはあっていません。)