odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

羽仁五郎「教育の論理」(講談社文庫)

 この本に書かれたことのいくつかが、筑波大学と関係している。「新しい大学」と目されて作られた大学でこの著者の講演会を開こうとしたところ(開学3年目の1977年)、当局のお達しで不許可になる。「本学に批判的な人物の講演は認めがたい」とかいう理由。1978年秋のたしか県議会選挙において、体育学類の学生100名弱が買収された。たしか数千円の報酬で不在者投票を行ったのだった。1979年1月の最初の無届集会があったと書かれている。この大学は、文部省の肝いりで作られ、史学とか地学などの移転に反対した教師を排除して作られたものなので、ここのできごとは注目を集めていたようだ。(本書は1979年9月の出版なので、1979年9月と1985年の学生による本部棟一階の占拠は書かれていない。)

 作者が文部省の廃止を主張するのは次のような根拠による。文部省の行っていることは、教育の基本的人権を尊重しないことにあり(教師の労働権を認めないとか、教育委員会の任命制をとることで地方自治に違反しているとか、教育内容に容喙しているとか)、代わりに教師と生徒(および両親)への管理を行うことにあり(校長・教頭による勤務評定であり、上記の教育委員会の任命制度、大学の教授会・学生自治会に破壊や介入など)、本来の役割である教育の状況の改善をおろそかにしている(一学級20名にするとか、危険な校舎を改築するとか、図書館を充実するとかをしていない)し、さらに教育を利権事業にしている(教科書会社による収賄汚職など、業者が行う学力テストを助長するとか)。それによって、生徒・教師・両親を自発的・自立した存在に自ら成長させることができず、かわりにテイラー式の生産ラインにあうような没個性、他者依存的な人間を生み出している。
 そんな風になったのは、日本が近代革命を経験していないので公務員の意義や役割に無知であること、戦後に戦争犯罪を国内で処罰することがなく多くの内務省官僚が文部省に異動して、戦前型の国家動員型の教育行政を行ったこと、また基本的人権を尊重しない行政に抵抗する勢力を叩き潰してきたこと(叩き潰す側に「革新政党」「革新勢力」の側が入っていたこともある。例、水俣病)。あと、独占資本による国民収奪の体制と、それを補強する官僚制度も問題とされる。
 これに対する解決策は、文部省の解体(だけではなく、国民の基本的人権を侵害するいっさいの官僚制度の廃止にまで視野に納めている)と、都市自治体を中心にした(中心にするというのは、そこの所属するメンバー全員が政治と行政に関与するということだ)教育の自由を確立すること。そこにおいて、教科書はないし、教育のプログラムは教師自身によって作られ、教師・両親・教育委員会による相互評価が行われ,教育委員会自治体によって教育の設備(校舎とか図書館とかその他創意工夫でいくらでも開発できそうだ)の充実を図る。官僚抜きにすると物事はよくいく、というわけだ。
 さて、異論反駁のでてくる議論だが、すくなくとも、これが書かれてから30年がたち、文部省および任命制の教育委員会が失敗し続けているのは明らかといえる(この本で指摘された問題が解決していないということであきらか。予想外だったのは少子化が進んだことで「受験産業」が拡大の可能性を失ったことくらい)。官僚の失敗があったので、教育は別の主体によって運営されなければならないだろう。著者の言うほど簡単に未来が開けるわけではないが、試みる価値はあるだろう。少なくとも官僚は自分の成果とパフォーマンスを外部で評価されるという仕組みを持っていないが、そうでない主体であればどこでも外部による評価と自己改革を行うだろうから。