odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

宮崎市定「科挙」(中公新書) 中国の教養主義は出世競争を激化させ官僚制を強化したが、危機と変化の時代には役に立たない。教育勅語と軍人勅諭は中国の真似。

 中国では西暦584年隋の時代に科挙という官吏登用試験が始まり、1904年の清の時代まで続いた。もともとは貴族政治による世襲を壊すためで、在野の人々(ただし試験には多額の費用がかかるので、ある程度の資産を持っている家でないと受験者を支援できない)を政治に登用することを目的にした。最初は貴族は無視していたが、合格するほうが栄達できるので、次第に参加するようになる。科挙が行われている間は、学校はなかったので、暗記する本をそろえたり家庭教師を雇えたりする貴族は(多少は)有利だった。試験は四書五経と言われる古典から出題される。全部合わせると43万字になり、ほかの歴史書なども覚えておかないと答案が書けないので、読書と暗記は膨大な量になる。そのうえ試験には詩作と評論があり、いずれの技術も磨かなければならず、美しい文字のほうが優秀にみられるので、書道の技術も獲得しなければならない。試験は地方から始まり、合格した成績優秀者は上位の地域の試験を受ける資格を得て、最後に天子の官僚になるまでに10回近くの試験を数年かけて受けることになる。その難しさのために、老年になっても受験するものや、不正を企てるものが現れたり、試験官の腐敗もあったりして、人生を棒に振りかねないことになる。ときに科挙の脱落者から一揆や暴動の主導者が現れ、世を乱す原因になったのだ。なぜそこまでの制度になったかというと、アジアでは常に人口過剰であって、技術の開発には関心が向かなかったので、起業が起こらず、貧乏人が立身出世と栄達する道は科挙に合格することしかなかった。そのために膨大な受験者と相まって、世界では類例のないような知的な競争文化になったのだ。
科挙は文士という官僚を選抜する試験だったが、武技で選抜する武科挙もあった。中国は一貫して文治政治だったので、武科挙で登用された官僚は重用されず、社会的評価も低かった。)

 科挙のメリットは貴族制を排除して、公平(誰でも受験できる、評価に私情がはさまないなど)な仕組みを作った。彼らが天子(皇帝)の官僚になることで、貴族の独裁や転覆を抑えることができた。天子の独裁制を強化する手段であったわけで、他の国が封建制世襲による弊害がある中では、きわめて早い時期から近世の官僚制が作られていた。科挙による官僚制が文書主義・法治主義を支え、文官を重視する文治政治が行われた。下記エントリーを参考。
2021/04/13 與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)-1 2010年
2021/04/12 與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)-2 2010年

 中央集権制を強化する代わりに、終身雇用の進士(科挙合格者)は転業困難であり、ときに合格者が多すぎてポストが少なく、合格後の出世争いも熾烈であった。試験で選抜するので教育機関を作らなかった。そのために新しい技術や仕組みの開発が行われなかった。なので1904年に時代遅れの制度として廃止された。
 四書五経を暗記し詩を書け、現状肯定と異物排除の道教道徳に沿った論を書かる。この技術は科挙が始まったときの文治政治を行うには適していた。そして官僚制が完成した宋の時代では変化やイノベーションを産まなくなり、清の後期になると西洋文明の「侵略」に対抗できなくなる。四書五経は専門知・実用知として扱われていたが、異質なものと衝突したり不測の事態が起きた時に対処できる教養知ではなかった。中国は早い時期に帝国が生まれ、広大な領地を支配する体制ができてしまった。そのために、自立や自由を主張し変化を肯定する思想が生まれなかった。自立し独立することが阻害され、悪にされてしまった。西洋の教養知と異なるところはここ。合理主義が徹底し、近代的な統治システムができるのは中国のほうが早かった(宋の時代)が、その後は停滞して世界システムの覇権を失い、近世以降は西洋と大きな差がついてしまった。知の仕組みの差が理由のひとつ。
 西洋の教養知は以下のエントリーを参考。
阿部謹也「『教養』とは何か」(講談社現代新書) 教養主義は職業選択の自由と学歴社会があって成立する 1996年
2023/08/07 竹内洋「教養主義の没落」(中公新書)-1 戦前日本の教養主義:デカンショは外国への憧れで、反学歴社会運動だった 2003年
2023/08/04 竹内洋「教養主義の没落」(中公新書)-2 戦後日本の教養主義:教養主義が終りサブカルが始まる 2003年

 なお、本書は受験生になって清時代の科挙を受験していくような記述になっているので、歴史にはあまり触れない。むしろ昭和30年代の日本の受験競争を揶揄するような筆致になっている。武田泰淳「十三妹」を読む参考にはなるが、大学入試には役立たない。名著とされるが、ここは注意しておこう。

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 本書は1963年初出。著者は中国研究の泰斗であるが、1945年3月に45歳で招集された。それ以前に軍籍があったというから軍の教育機関で研究していたのだろう。戦局が悪化すると、兵士にしたほうが損になるような人も命が安い兵士にさせられる(アメリカでは敵国研究者は軍の嘱託で研究を支援された)。その記憶が残っているのか、本書では科挙で選抜された進士の文治政治を称賛する。他国への侵略や国内の騒乱を行さかったからだ。翻って、日本の軍国主義と学歴社会を批判する。その文脈で以下が書かれる。

「中国における教育勅語ともいうべきものの起原は、古く明の太祖にまでさかのぼる。彼は人民の守るべき心がけとして「聖諭(せいゆ)六言」なるものを発布した。 
父母に孝順なれ 
子孫を教訓せよ 郷里に和睦せよ 長上を尊敬せよ
おのおの生業に安んじ 
非違をなすなかれ 
 清朝に入って康熙帝はこれを増して十六条とし、その子の雍正帝が各条を敷衍して「聖諭広訓(せいゆこうくん)」と名づけ、一万語におよぶ長文としたが、以後学校試においては、県試、府試、院試のいずれの際にもその最後にくる終場の折に、十六条の一を指定して清書させるのが例となった。この「聖諭広訓」は徳川時代に日本に伝わってそのまま伝誦されたが、明治に入って教育勅語の発布を見るにいたったのは、これにヒントを得てのことと思われる。しかし形式の上からいえば、むしろ「軍人に賜わりたる勅諭」の方が、「聖諭広訓」の形に近いのである。(P29)」

 教育勅語軍人勅諭も中国の真似だったのか。