3つの大学の全共闘が当時30代後半の作家と対談する。そのあと、3人で総括の対談を行う。1969年4月に行われた対談は、日大全共闘と小田実、京大全共闘と高橋和巳、東大全共闘と真継伸彦という組み合わせ。すでに東大安田講堂は「落城」。ほとんどの大学に機動隊が導入されて(おかしな言葉だな)、バリケードストライキは撤去されている。運動のリーダーは逮捕されたり学内に入れなかったり、参加者も敗北感がただよってきていて、セクト間の内ゲバが始まって新たな参加者が減り、入試阻止の戦術は高校生や親の共感をなくすことになり…と、閉塞感の漂ってきた時期。この対談の発言をみると、全共闘の参加者は全学生の数パーセントくらいか。運動が社会的に注目を浴びたわりには参加者は少ない(まあ、この10年後にはこの比率はさらに低下していたわけだが)。
討論のテーマは、1)現在のミッションと実現のための展望、2)学問のあり方批判、3)「自己否定」の中身、あたり。他の感想文でも書いたことの繰り返しになりそうなので、手短に。
1.学生運動であるのだが、ミッションをどんどん高く設定していった。不正経理の告発、学費値上げ反対、インターン搾取の撤廃などの具体的問題から、大学民主化・大学解体へと風呂敷を広げ、革命を構想する。それも短期間に達成しようとする。風呂敷を広げたが、たたみ方を構想できず、どこまでの達成で勝利かを決めることができず、ずるずると引きずってしまった。
2.大学進学率は15%くらいかな。試験に受かる技術を持つと同時に、学費ほかを捻出できる親を持っていることが必須。卒業すれば厚遇で就職できることになっている。そのような社会エリートであるわけで(学生自身が卑下するほど「ポンダイ」が冷遇されていたわけではない)、その意識はこの運動にも反映している。例えば、市民や労働者との連帯を掲げながら具体的な働きかけはない。公害反対運動などの住民運動に学生運動の方法を持ち込んだら、かえって邪魔になる(勝手に「跳ね上が」って機動隊や公安の付け入る理由をつくり、即座にいなくなるので後始末が住民にふりかかるとか。事例は宇井純「公害列島70年代」など)。それは市民や労働者にかかわることだけではなく、これから「学生になる人」への関係でも。1968−69年にかけて入学阻止の運動があったのだが、それって「これから学生になる人」の権利を損なうものではないか。一方で、小田実がいうように大学の就職斡旋があることを否定しないし、まして全体として「企業就職拒否」をするわけでもない。学生運動に参加する「うちわ」「インサイダー」の区別をとても厳密にする。内輪やインサイダーには24時間×365日の全面的な参加を求め、そうできないものは排除していく。そのような秘密結社のエリート性が、連帯を掲げながら、実際は内輪で濃密な人間関係をつくることに深化していく。
【参考】 大学・短期大学等の入学者数及び進学率の推移
http://www.mext.go.jp/b_menu/shingi/chukyo/chukyo4/gijiroku/03090201/003/002.pdf
3.そんな具合に「自己否定」の論理が、あいまいで抽象的であるのだよなあ。学生は24時間×365日、学生であるのだけど、サラリーマンや公務員は毎日、サラリーマンと家族と町の付き合いなどペルソナと役割を交換していて、それぞれの場合で運動のかかわり方も変わってくる。そこのところに想像力が及ばないので、「自己否定」の論理も内輪でしか通用しないものではなかったか。「企業への就職拒否」とか「応募者全員入学」とか「OB、PTA、学生を巻き込んだ大学運営」などの「革命的」な提案ができないあたり。
4.反大学や自主講座で学問の権威的なあり方を批判したのであるが、彼らの実践は貧しかった。学生の勉強会は知的に限界があり、マンネリに陥りやすく、運動を優先するので中途半端に放置される。自主講座で長続きしたのは、大学に職を持つ人が主催したときだけだった。
5.彼らの運動は内輪で閉じていて、広がりを持たなかった。そりゃそうだ、ゲバ棒もって逮捕覚悟でデモするとか、バリケードに閉じこもって逮捕覚悟であるとか。そこまでの覚悟を持てない/持たない人が参加できる運動を考えもしないし、行おうともしない。なので、参加しない/できない人を馬鹿にする一方、脱落すると運動から完全に背を向けてしまう。やるかやらないかという二者択一を迫る方法が参加率を押し下げ、支持を減らすことになった。
悪口を言い始めると止まらなくなるのでここまで。
会議のファシリエーターを務めた三人の文学者は経験もあって、会議の進め方やまとめ方はうまいです(編集の手が入っているけど)。面白いのは小田実が現場の経験やほかの運動の参加者の聞き取りなどの経験もあって、具体的実務的な発言に徹しているところ。その中のいくつかは21世紀の今でも傾聴する中身がある。しかし、大学教員で自分の仕事=研究を持っている二人の文学者は内容が観念的。それは全共闘の若者たちの思考に近いので、彼らの代弁にはなっても、彼らの思考様式にとらわれ過ぎて内容が空疎だった。
好事家でない限り読む必要はないな。なにしろ、日大・東大などの大学闘争の歴史を知らないと、この対談は理解しがたい。日本大学文理学部闘争委員会書記局編「叛逆のバリケード」(三一書房)、東大全学共闘会議編「砦の上にわれらの世界を」(亜紀書房)を探して読めというのもなんだし。まあ、入手はきわめて困難なはず。