早稲田大学に在学中の22歳の青年が、1968-69年にかけて書いた文章を収録したもの。当時は全共闘運動が盛んであって、彼もまたその一員。当時の文章の書き手はずいぶん若かったというが、著者も同様。
その全共闘運動なのだが、学生や院生の主張が多岐にわたっていて、同時代を経験していないものには何とも不可解なところがある。この本やこれまで読んだほかの資料などを参考にまとめてみようか。大きく彼らは、政治革命と文化革命と存在革命をめざす。この社会に様々な問題があって、人々は資本主義に搾取され貧困にあえぎ、格差が拡大しているからこの3つの位相で革命を起こそうという。政治革命では、1)大学改革、2)反戦反安保、3)政権の転覆のレベルで行われる。大学の不正経理とかインターンのただ働きとかくそつまらない授業とかエリート官僚養成しか目的のない講義とか講座の封建的な運営とか、いろいろ大学に不備があって改革しないといけない。反戦反安保はアメリカの従属国のような立ち位置でベトナム戦争に関与し国内の諸問題を無視している政策や組織をつぶそうとする。そのうえでレーニンのいうようなプロレタリアート独裁を実現して、国家独占資本主義を葬ろうというわけだ。
文化革命は後述。
存在革命は、学生という奇妙な場所にいる自分らを反省して、資本の搾取や国家の差別などに加担しない存在に自己を変革しようというものみたい。当時の進学率は15%を切るくらいだったかな。自分の頭がよく、かつ親が資金援助することで生産活動には携わらないというのが、工場プロレタリアートや職業革命家に対する引け目になっていたのか、エリート主義の克服は彼らに必須であったものみたい。自己否定の仕方は、討論と反省文と行動でもって表現される。まあ、どこまで否定すれば本来的自己に到達するのかそういう議論はなかったので、検証も比較もできないと思うのだが。ざっとこんなモチーフであると思えばよいか。
ともあれ、政治革命と文化革命と存在革命のそれぞれのヴィジョンとミッションがあって、力点は個人や組織によってバラバラ。さらに政治党派(新左翼と呼ばれるグループね)は、党勢拡大と運動のヘゲモニー奪取を目的に行動するので、さらにぐしゃぐしゃな事態になった。この運動に興味を持った自分でも、ここまでの整理になるのに四半世紀はかけているから、傍観者にはまずわからないのではないかな。
さてこの本では差別が取り上げられる。これは当時書かれたさまざまな文章の中では異色。上記の政治、存在の革命にはひっかかってこない問題だから。きっかけは1969年の出入国管理及び難民認定法の改正案提出。ここで外国人登録証とか入国審査とか強制退去などの規定が厳しくされ、とりわけ在日朝鮮人や在日中国人にたいする規定と処罰が厳しくされることが予定された。在日朝鮮人や在日中国人の学生グループから反対運動が起こる。共産党と新左翼党派は無反応。なかにはヘイトスピーチやヘイトクライムのような行動を彼らに対して起こしたりもする。いち早く呼応して、入管法反対運動を主張したのが早稲田大学のグループで、その理論的根拠を書いたのがこの本。このときの改正は審議未了で廃案になった。
理論的根拠といっても、大仰な言葉の割に内容に乏しい。ブルジョア民族主義が体制のイデオロギーであれば、全共闘ほかのイデオロギーはプロレタリアート国際主義で対抗。ブルジョア民族主義がマイノリティに暴虐を尽くそうというのであれば、プロレタリアートは彼らマイノリティと連帯し、体制の意図を挫かなければならない。そのうえ、15年戦争とその敗戦で周辺諸国に多大な被害をもたらしたものの子孫として、その責任と痛感し過ちを正さなければならない。というところか。
問題は、ブルジョア民族主義に対抗するプロレタリアート国際主義が、まさに国際問題において弱点を露呈するところ。国内の格差の解消を目的にするとき、ブルジョアとプロレタリアートの二階級対立は説得力をもつ。ところが、プロレタリアート国際主義を主張すると、その普遍主義が国内のマイノリティーと第三世界諸国に受け入れられない。「プロレタリアート国際主義」を主張する側が差別や抑圧をする側と同じ論理やシステムをマイノリティと第三世界諸国に押し付けるからだ。プロレタリアートは所属する国家が別であっても利害は一致するというのが国際主義の根拠だが、その理由ははっきりしない。歴史や社会の事象を見ると、プロレタリアートの中心とみられる工場労働者は民族主義や排外主義を主張し行動することがある。第1次世界大戦時のロシアやドイツの労働組合や共産党がそうだし、1960-70年代の公害反対運動に敵対したのは、当の企業の労働組合であった事例がたくさんある。「国際主義」という普遍主義が、マイノリティに同一化を要求し、差異に不寛容になる。ソ連や中国その他の少数民族迫害がそうだし、党派もその種の反応を示すし。そのうえ、差別反対運動の参加の仕方も、「○○氏の不当解雇(逮捕、拘留…)反対を支援する会」みたいに、マイノリティの運動を側面支援するような仕方。これでは、マイノリティに大きな責任を負わせることになる。
2013年からのこの国のアンチ・ファシズムの運動が興味深いのは、こういう左翼の運動論を持っていないところ。執行委員会とか書記局みたいな指導部がない。下部組織もなくて動員令がでることがない。ヘイトスピーチやヘイトクライムは日本人の問題であって、日本人同士でかたをつけようというところも。マイノリティとの連帯は旗印にしないし、目的にしない。せいぜい「仲良くしようぜ」まで。それでOKだと思う。
タイトルの「われらの内なる」は、たいていは道徳的な問いかけ、自分の心情の見直しみたいな意味合いで使われるが、ここでは反体制運動の組織や運動論の中に存在しているという提起。道徳や倫理には無縁な使い方なので注意しておくこと。まあ、この時代に国内の左翼党派で在日朝鮮人や在日中国人などの差別問題を取り上げたということで珍重することができるが、その内容は上にみたように今日に通用しない。
本書の後半は文化革命に関する議論。これがまったくわからない。著者の議論をみると、社会は経済の下部構造と文化の上部構造をもっていて、政治革命は下部構造を転覆する経済革命を本願しているが、それだけでは不十分。自己の存在革命とあわせて、ブルジョア的上部構造をプロレタリアート文化で革命的に転換しなければならない。それがレーニン「国家と革命」を実現する方法、という感じ。折からの中国の文化大革命がそういう学生や労働者などの下部構造の階級が上部の官僚や資本家などブルジョア文化を打倒・変革しているので、それをモデルにしようというみたい。まあ、情報が制限されていたし、毛沢東も存命中だったしね。読む必要なし。
(ほかの本などと突き合わせれば、文化革命は、体制の抑圧する文化を壊すこと、抑圧を受けているマイノリティの文化に自由を与えることなどを目指していたのかもしれない。1960年代だと、性表現・女性・黒人などが抑圧された文化の持ち主であったのかもしれない。このような文化革命と全共闘運動はどうかかわったのか? よく知らないなあ。日活ロマンポルノの俳優・田中真理がよく学園祭に呼ばれて、講演したくらいかねえ。学生がポルノ映画を見るとか、「性の解放」を個別に行うのは運動というにはなんかちがう。)
彼の参加する政治革命は数年後に挫折。そのあと残された文化革命と存在革命は、著者の中国料理や整体研究で実現されたのかしら。だとすると、おかしな議論に移動したものだ。