odd_hatchの読書ノート

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ヴォルフガング・モーツァルト「モーツァルトの手紙 下」(岩波文庫) 大人子供(チャイルデッシュ)の神童モーツァルトも結婚して子供ができれば大人のシリアスな問題に直面する

2015/11/06 ヴォルフガング・モーツァルト「モーツァルトの手紙 上」(岩波文庫)の続き

 下巻は1781年、モーツァルト25歳以降の手紙が収録。この年には、両親とは別行動。ザルツブルグ、ウィーン、パリなど自分の居場所を求めて、西洋の都市を移動する。そして熱烈な恋をして破局を経験し、生涯の伴侶を見出す。一方で、それまで有力な就職先であった教会との関係が悪化する。これらがいろいろないまざって、父との関係が悪化。自活が可能になり、子供も生まれる。こと生活から見れば、順風満帆な一歩を踏み出していた。しかし、モーツァルトの残り時間はあと11年しかないと読者である我々は知っている。手紙には、残された時間と晩年の生活苦を予感させるものはない。そこがときにいたたまれない。
 下巻の手紙に即して、モーツァルトに起きた出来事を抜き出してみると
1782年 コンスタンツェと結婚。ウィーンに拠点を構える。
1784-85年 この時期にモーツァルトの人気が絶頂。
1787年 家計が苦しくなる。最初の借金依頼の手紙。
1789年 妻の病気。妻は近郊の温泉で湯治。
1790年 体の不調を最初に訴える。
1791年 レクイエム作曲。12月5日死去。享年36歳。
 ザックリとこんな感じ。いかに音楽の流行り廃りが激しいとしても、たった数年でモーツァルトの人気が変転することにあらためて驚かされる。ふだん、彼の音楽を聴いているときは、その背景にある作曲家の生活状態にまでは思い至らないからなあ(ロビンズ・ランドン「モーツァルト」(中公新書)によるとダ・ポンテ三部作のオペラ発表で貴族やブルジョアたちが背を向けたということで説明できるという)。
 そのうえで気付いたことをいくつか。

モーツァルトにかかわる有名な手紙がある。父にむけた「死はわれわれの真の最終目標(中略)数年この方、人間の真の最善の友ととても親しい」とか、ダ・ポンテにむけた「あの見知らぬ人の姿を…追い払うことができません。…私の仕事を急き立てるあの人の姿が、私の目から離れないのです…レクイエムは私の葬送の歌です。」など。これらは1980年の時点で、自筆かどうか疑義があるとされた。また、妻の妹による臨終の様子、友人の手記に書かれた葬儀の様子、これらは死後数十年してから書かれて信憑性に疑いがある。激しい嵐の日に亡くなった、葬儀に妻は立ち会わなかったというのも、当時の気象記録などにあたって、嵐ではなく曇天であったとか、妻が埋葬に立ち会わないのは当時では普通のことであったなどが明らかになっている。これもまたモーツァルト神話を解体する情報なのだが、あまり知られていないみたい。

・それは晩年の妻との関係にもあって、手紙でモーツァルトは弟子のジェスマイヤーにしきりと文句を述べるが、破門するわけでもない。石井宏「帝王から音楽マフィアまで」(学研M文庫)によると、ジェスマイヤーは夫公認の妻の不倫相手であったという。妻の温泉湯治にジェスマイヤーはつきそっているらしいのが、それで説明できるという。これもまた、モーツァルト神話を崩す情報になるはず。まあ、あまりに読者の常識と反しているので、さてどの程度受け入れられているのかしら。自分には真偽を判定できないが、ありうるのではないかくらいの感じ。

・1791年の手紙にはサリエリが数回登場。その中には、「魔笛」に招待して意見を聞いていたりしているものがある。それを読むと、映画「アマデウス」に代表されるサリエリによる毒殺疑惑というのは、無理があるよなあという感じ。まあ、没後50年目にはすでに膾炙していた有名な陰謀論だからなあ(プーシキンが詩にしていて、リムスキー=コルサコフが曲をつけた小オペラがあるくらい)。

・手紙でちょっとふれるくらいでしかないが、他人の作や自作の評価、あるいはオペラの理念に関する主張などがある。それはとても的確で明晰な文章で、主張もはっきりしている。モーツァルトには速筆だとか、頭の中で音楽を頭から終わりまで一気に鳥瞰するとかの天才ばかりが有名だが、どうも違うようだ。明確な音楽の方法と、とても厳しい作品評価がある。これもまた天才神話を覆す文章になる。

 という具合に、手紙をじっくりと読むことで、さまざまな神話を自力で解体することができるのだった。なるほど18世紀の手紙の文体や書かれている風俗や文化は理解しにくいものであるが、それを乗り越えて読むだけの重要さはある。とくに、彼の音楽を聴いている人にとっては。

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