odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

ドロレス・イバルリ「奴らを通すな―スペイン市民戦争の背景」(同時代社)

 2015年の夏、国会議事堂前の安保法制反対街宣で「ノー・パサラン」のコールが起きた。「ノー・パサラン」は「奴らを通すな!」(¡No pasarán!)という意味で、ファシズムに抗する人たちの世界共通のスローガン。20世紀の初めから多くの人が発してきたが、有名なのはスペイン共和国に対する反乱がおきたとき、1936年7月18日にラジオから著者が呼びかけたもの。本書を引用すると

「政府が放送したニュースは、反乱は数箇所ですでに粉砕されているとつたえた。人民は歓喜に酔った。七月十八日の晩、わたしは内務省の無線局から共産党のために放送した。『膝を屈していきるよりは、足で立って死のう! 奴らを通すな!(¡No pasarán!)』/その時以来、『ノー・パサラン』は抵抗運動の鬨の声となった。」(P191)

  堀田善衛「スペイン断章〈上〉歴史の感興 」(岩波新書)によると、この演説を引用したと思われるビラが配布されたという。リンク先を参照。
(ただ、wikiによると「ノー・パサラン」はイバルリ女史以前から使われていたらしい。

ja.wikipedia.org

 
 今ではとくにアンチ=レイシズム、アンチ=ファシズムの共通スローガンとして使われている。)

 さて、この本はドロレス・イバレリの自伝にして、スペイン市民戦争の共和国側の記録。この本から半生をまとめてみると、1895年バスク州ビルバオの鉱夫の娘として生まれる。劣悪な労働環境、慢性的な貧困、義務教育不在などの環境で育つ。20歳で鉱夫と結婚。労働組合運動の活動家だった夫の影響を受けて、マルクス主義関連文献を読み、共産党に入党。
 スペインは昔日の栄光はどこえやら、産業革命に乗り遅れ、市民革命も経験せず、20世紀初頭まで王政。1923年にミゲル・プリモ・デ・リベラ将軍がクーデターを起こし、独裁制に。市民運動を弾圧。第一次大戦後のインフレや労働運動などで国内が混乱し、1931年に選挙によって共和制勢力が伸長し、王室が退位。独裁が終了。新政府は社会労働党が与党になったが、このスペインでは、ほかに共産党(ボリシェヴィズム)やトロツキスト、アナルコ・サンディカリストアナキストなどさまざまな社会主義運動があり、それぞれ多くの支持者を持っていたので、政権は不安定だった。1933年、ファシズムファランヘ党設立。1936年、モロッコフランコ将軍がクーデターを起こし、ファランヘ党と組んで、共和制勢力を攻撃する。共和国側の民兵を組織し、市内戦が開始。1939年、共和国政府が瓦解、主な政治家は亡命するまで、スペイン市民戦争が継続する。フランコは大統領になり、1975年に死去するまで独裁制となる(この時期、ほぼ鎖国状態)。その後立憲君主制になり、民主化が進む。イバルリはモスクワに亡命していたが1977年に帰国し、代議員になる。1989年没。

 イバルリは政府の要請を受けて副大統領になった。なので、本書はスペイン市民戦争を内部から見た貴重な資料である。とはいえ、いくつかのもんだいがあって。
 ひとつは、もともとは自分の覚書として書かれたものなので、とても散漫。事実の列挙がたんたんと続いたり、政府の文書の引用が続いたり、個人的な体験となったりして(でも、婦人刑務所に収監されたり、共産主義者を蛇蝎のようにおもう修道尼とかみ合わない会話をしたりは面白い)、市民戦争の全体を把握するにも、ドキュメンタリーの迫真さを感じるにも、不足している(その点、リード「世界を揺るがした十日間」、スノー「中国の赤い星」はとても面白い)。
 もうひとつは、彼女が共産党(ボリシェヴィズム、レーニン=スターリン主義)の忠実な党員であるので、彼女の見方にバイアスがあること。市民戦争の転換点は1937年のマドリッドの攻防戦と翌年のバルセロナの攻防戦にある。バルセロナではPOUM(マルクス主義統一労働者党)の「裏切り」「反革命」が統一戦線を破壊したと彼女はいう。この都市にはボランティアで共和国側の防衛隊に志願したジョージ・オーウェルがいたが、彼の見聞では共産党がPOUMのメンバーを拘束・逮捕したのであり、過酷な弾圧・拷問が行われたのであった。また、彼女は共和政府の与党である社会党の優柔不断さを厳しく指弾し、それに対して共産党が市民の支持を得ていると強調する(この立場はファシストとの闘争よりも社会党との闘争を優先した戦間期のドイツ共産党を同じ)。このような党派性が強く押し出されているので、読みずらい。
 とはいえ、スペイン市民戦争(および共和制)が負けた/瓦解したのは、政府や市民の問題(統一戦線ができなかった、レジスタンスやゲリラでは軍隊に勝てない、軍を味方にできない、統一した指導部が存在しない、など)もあるが、より重要なのはファシストにはイタリアとドイツの支援があった(新兵器や戦術の実験場にした)のに対し、共和国にはリベラルであるはずのイギリスやフランス、アメリカ政府が冷淡であり、ほぼ無支援であったこと(共和国の兵器買い入れもことわったくらい)。人権尊重や差別撤廃などは、周囲からの監視と支援が必要であることを痛感した。
 ドロレス・イバルリは「ラ・パッショナリア」の異名をもっていて、通常は「情熱の花」とされる。でも、本書中で自身がいっているように、パッションには「情熱」といっしょに、「受難」の意味がある。実際に、イバレリは受難を引き受けた人であった。時間のほぼすべてを政治活動に使い、誹謗中傷や人権侵害は日常茶飯事であり(くわえて女性差別も受ける)、冒険旅行(ファシストの封鎖する国境越えを敢行)をし、軍やファシストの襲撃を恐れて子供をモスクワに送り、市民戦争敗戦後はモスクワに亡命することになる。フランコ独裁中は、共和国側についた人はひとしく厳しい弾圧や処罰を受け、亡命を余儀なくされた人がいたが、その人たちにとってイバレリは希望であったのだろう。

参考エントリー: 
堀田善衛「スペイン断章〈下〉情熱の行方」(岩波新書) 1982年
堀田善衛「バルセローナにて」(集英社文庫) 1989年