odd_hatchの読書ノート

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柄谷行人「言葉と悲劇」(講談社学術文庫)-2

2018/12/10 柄谷行人「言葉と悲劇」(講談社学術文庫)-1 1989年の続き

 後半は「探求」の連載時期と重なる。

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世界宗教について 1986.11 ・・・ 世界宗教は(外部のないような)世界を開示する宗教。教義は「神を怖れよ」すなわち共同体の神を退け共同体の外(砂漠がそのメタファー)にでろ、と、「他者を愛せ」すなわち交換し合うような他者と出会え。世界宗教を語った人はその共同体に対して外国人(ルールや規範を共有しないという点で)としてふるまい、砂漠という交通の場所で商人のように生きた。精神、思惟、考えるが一つの共同体に属しているのではないかと疑う。

スピノザの「無限」 1987.07 ・・・ スピノザ(に限らずヘーゲルフッサールも)はよくわからないのでスルー。世界を共同体としてみるか、コスモポリタニズムとしてみるかがあるけど、いずれも共同体の内と外を分ける。でもスピノザは共同体の自明性に違和を持ち、ディコンストラクションする方法をとった。内と外の区別のない、超越的な他者をもたない交通空間に生きる。この交通空間では共同の法(自然法)が必要とされる。そのような交通空間と自然法のある場所をマルクスは国家に対比して「市民社会」と呼んだ。自分の読解では「社会的」ともいうのかもしれない。

政治、あるいは批評としての広告 1987.09 ・・・ 広告は共同体の同質性(他人の欲望を欲望する)を前提にし、共同体を強化する。そこからデモクラシーにおける政治の広告的役割が現れる。すなわち広告は大衆にどう見えるかが大事で、支持の理由になる。政治家では内実よりも演出・役割が支持の理由になる。あと、思想はリアリズムとノミナリズムの対立であって、リアリズムが優勢であるが、ときに逆転する。

単独性と個別性について 1987.11 ・・・ 個別性は一般性に対する特殊性(そこから概念が形成)。類に対する個。単独性は一般性に属しながらどこにも属さないなにかとしてあること。代替、交換、翻訳できない。「この私」「この人」「このもの」。あの世への関心を持たない。その点でユダヤキリスト教は単独性と普遍性で考えている。たいていは類と個。固有名詞は普通のものいいかえようとしても固有性、単独性が残る。

ファシズムの問題―ド・マン/ハイデガー西田幾多郎 1988.01・・・ 後半は西田やハイデガーフッサールの考えた共同体や無限に関する話。これは自分には興味はない。前半はハイデガーやド・マンのナチス関与疑惑について。EC(当時)はフランス、ドイツ、ユダヤ人主導で運営されているので、反ユダヤ主義がもうないことを証明し続けなければならない。一方、日本は昭和天皇が存命なので、反軍国主義日本を表明できない。国際化を指向するしかない。国際化のイデオローグは「新京都学派」(このイデオローグは21世紀にいったいどこにいったか。というか亡くなって、後釜がナショナリストばかりになったということか)。「排外主義や軍国主義は現在(1988年)もはや力を持ちえないのです」。(このような当時の認識の甘さが1990年代以降のナショナリズムと排外主義になったと思うと、同時代を知っている自分は忸怩たる思い。)

ポストモダンにおける「主体」の問題 1988.04・・・ ハイデガーや西田らのデカルト批判、主体批判には、デカルトの考えの決定的なものの見落としがあり、それが共同体への帰着、ファシズムへのコミットメントと切り離せない(西田の個人主義全体主義の否定と第三の道の見出しが、日本帝国主義を正当化するイデオロギーになった)。そこで、デカルトの読み直しをする(ここはちんぷんかんぷん)。

固有名をめぐって 1988.05 ・・・ 普遍-単独、一般-特殊。特殊と単独は個体にかかわるが、一般性(もしくは集合)に属-するか否かで区別される。単独性や個体性について現代論理学やレヴィナスなどにみる。

安吾その可能性の中心 1988.09 ・・・ 近代史では激動期と安定期が交互にやってくる。1789-1815と1914-1945が激動期で、その間が安定期。安定期には恐慌-不況-好況-恐慌の循環があり、構造や形式で考える。激動期には構造や形式が壊れていて、日常と非日常が同時にあり、構造的に考えることができない。安吾は激動期で考えていたので、安定期の構造や形式から見ると見えないものがある。そこが可能性の中心。
(著者によると安吾あらゆる領域に手を出していて、後の人がその真似にしかならないような飛躍した地点を実現しているとのこと。この講演を読む前に、安吾の探偵小説を一通りまとめて読んだので、そうかなあという感想。ま、都筑道夫安吾の探偵小説をモダンといっていたのでそうなのかもしれない。あと、著者によると探偵小説の探偵は犯罪の形式にのみ関心をもち、つかまえることや罪には無関心とのこと。ここはホームズ、ヴァンス、クイーン、ポアロなどを見ると妥当。)

 

 考えについてはあれこれ言えるようなことができないので、わかるところだけをメモした。
 講演から30年たって読むと、1980年代が前半に不況、後半が好況であったわけで、この国の戦後では空前の富の蓄積と蕩尽があったのだと思い返す。そのうえ、レーガンサッチャー、中曽根と保守の政権ができたわけだが、21世紀に比べるとはるかに穏健な外交と軍事政策をとっていた。市民や国民による政府の監視が機能していて、暴走を許さなかった。なので、時代を見るときには社会主義国家の危機ばかりに目が行き、自由経済国家のデモクラシーは安定していると思い込んでいた。とくにこの国では、戦争、ジェノサイド、ファシズムへの危機意識が薄かった。そのあたりは特に「ファシズムの問題」に反映されている。
 それが1990年のあと、一気にナショナリズムが強くなってしまう。21世紀の10年代には極右政権ができ、路上に排外主義とレイシズムがあり、全体主義の政治が行われるようになっている。著者には関係ないことだが、1980年代にいいかげんにしてきたこと、見逃してきたことのつけを現在(21世紀の10年代)払わされているように思う。このころ、ニューアカなどに入れあげて、政治に無関心を装ってきたことを今になって挽回することになっている。

 
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