odd_hatchの読書ノート

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堀田善衛「方丈記私記」(新潮文庫、ちくま文庫)

 作家が学生時代(戦時中)から読み続けてきた「方丈記」。戦後25年目に、中世の勉強の成果を含めて読み直す。長明の時代は平安末期から鎌倉幕府成立ごろで、住んでいた京都は荒れに荒れていた。政治と経済がだめになって末世を肌で感じている。戦争末期も同じく都市は荒れに荒れていた。二つの時代をつなぐのは 

「やはり戦争そのものであり、また戦禍に遭逢してのわれわれ日本人民の処し方、精神的、内面的な処し方についての考察に、何か根源的に資してくれるものがここにある、またその処し方を解き明すためのよすがとなるものがある(P64)」

であって、そこから「方丈記」を読む。

その中の人、現し心あらむや ・・・ 「如何に、残酷やあるいは冷酷なほどの低声をもって語られたものであったか」と作家が繰り返し読むことで見出した鴨長明方丈記」。平安末期の衰亡の時期と、15年戦争終末期の昭和20年を重ねる。まずは1177年4月28日の京都の大火と、1945年3月10日の東京大空襲

世の乱るゝ瑞相とか ・・・ 翌3月11日の東京を歩きながら「方丈記」の記述に当てはまる光景を見る。そして、ひとつは天皇、政治家、官僚、軍人、庶民がいっせいに家を失って難民になるという幻視。そこにあるさわやかな期待。もうひとつは、政治家や貴族などが庶民、国民を全く無視していることの共通性。例えば、近衛文麿の上奏文には中以下の国民はみな共産主義者で、この10年の出来事は共産主義者の陰謀であるなどと書かれている。
(戦禍においてひとしく難民として平等になるという認識は、20歳ほど年下の小田実も中学生のころの大阪空襲で得ている。)

羽なければ、空をも飛ぶべからず ・・・ 同3月18日。空襲被害が生々しい中、富岡八幡宮憲兵ほかによって清掃され、人々が追い出され、作家は遠くからそれを見る。人々は、土下座して、焦土と化したことを詫びる。この転倒。そこに作家は「無常観の政治化」を見る。ちなみに、その人の視察は1時間で終えた。
(空襲の詳細や戦争責任などの議論を知る前に、自分はこの章を読み、衝撃を受けた。それは上から下までのこの国の無責任の仕組みであって、たとえば岡本喜八「日本のいちばん長い日」を見ても、それに対する違和感ないし怪物性を消すことはできない。)

古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず ・・・ 鴨長明の20代後半には京都に大火、大風、遷都、飢饉、地震が相次ぎ、あわせて戦乱に群盗が闊歩し、平氏と源氏が相争っていた。そこにみられることは「戦時に生起することのほとんどすべてについて、思いあたることがある」というほどであり、飢饉の際には4万有余の死者が出たりもしている。そこにおいて西行、定家、兼実などの同時代貴族は朝廷以外には無関心の機会主義者、ディレッタント、政治的無責任者として過ごした。
(與那覇潤「中国化する日本」(文芸春秋社)によると、平安末期は中国化(グローバル化)と日本化(鎖国)のせめぎあいであり、東国の無学な武士による後者の勝利がこの国の閉鎖性とか濃密な人間関係の仕組みをつくったとされるのであるが、これを見ると朝廷や平氏の側もきわめて「日本」的な無責任の仕組み、体制になっていたと知れる。次の章では「朝廷政治は政治責任結果責任などというものとまるで無関係なところにある」と指摘。)

風のけしきにつひにまけぬる ・・・ 鴨長明は50歳を過ぎて鎌倉に行き実朝と会う。そこでは「古京はすでに荒れて、新都はいまだ成らず」のように、鎌倉幕府の不安定性と流言飛語の暗躍がある。それを見た直後に「方丈記」がかかれる。であるから「彼の無常感の実体は、あるいは前提は、実は異常なまでに織烈な政治への関心と歴史の感覚である(P108)」とされる。観念的な無常観とは無縁な認識であるのだ。

あはれ無益の事かな ・・・ 父の死によっってしょっぱなから人生にけ躓いている長明の30−40代。和漢管弦の道、すなわち朝廷文化のなにごとも習熟できる才の持ち主であるが、他人の横やりなどでうまくいかない。

世にしたがへば、身くるし ・・・ 当時は生きるに難い時期であった。そこにおいて長明の任官運動は実を結ばず、方丈に暮らすことを決意する。50歳。

世中にある人と栖と ・・・ 住宅好きの長明。図面を何枚もかき、実際に作り、移動させ、居住する。すなわち「無常観の実践者」である。

夫、三界は只心ひとつなり ・・・ 若いころに習い覚えた和漢管弦の道を捨て、任官の道をあきらめ、政治的・世俗的関心を捨てて、庵に住む。当時のこととて、山間に一人住むとなると、手間暇はかかるのであり、とても風流優雅ではありえない。俗流無常観なぞどこえやら、狂人の眼を持っているかもしれぬ。文章にも嫌味やら騒々しさがそこかしこに覗かれる。

阿弥陀仏、両三遍申してやみぬ ・・・ 平安末期の京都とそこに住まう人からみたその時代のまとめ。朝廷文化の根本である本歌取り思想は「現代日本語の拒否であり、現実を歌うことの拒否」であり、「自衛本能にもとづく閉鎖文化集団」となる。そこから「必然的にともなって来る閉鎖的な権威主義は、批評をも拒否する」のであり、「存在し、存続だけが自己目的と化」すのであった。この朝廷文化は存続し(それを自己目的にしているから当然か)、のちに後醍醐天皇らのバックラッシュもあったが、政治の実権は関東の無学で粗野な武家集団に移る。しかし、本歌取り思想は武家政権においても根を張り、この国の仕組みや考えの基底に残る。長明は朝廷文化のひとであるが、はじかれ、のけ者にされた。そして世を捨てる。そこから

「歴史と社会、本歌取り主義の伝統、仏教までが、全否定をされたときに、彼にははじめて『歴史』が見えて来た。皇族貴族集団、朝廷一家のやらかしていることと、災狭にあえぐ人民のこととが等価のものとして、双方がくっきりと見えて来た。そこに方丈記がある(P222)」。


 なるほど古典を読むとはこういうことなのか、と襟を正し、座り直すことになる一編。たんに「方丈記」一冊を読むのではなく(たかだか9000文字であって、たぶんこの小著に全文引用されている)、あるいは俗流解釈におぼれることなく、繰り返し読むだけでなく、周辺事績や人物にも関心を広げ、不明なところは専門家の研究にあたり、「方丈記」と作者のみならず、平安末期の数十年を何とかして把握しようというのだ。そうすると、高校教科書の日本史や古文の範囲を超える理解を得られるわけである。しかも作者は作者の内面を想像を働かせるのではなく、行ったことと書いたことから論理的に推論を働かせるのである。そうすると、

「この鴨長明という人は、なんにしろ何かが起ると、その現場へ出掛けて行って自分でたしかめたいという、いわば一種の実証精神によって、あるいは内なる実証への、自分でも、徹底的には不可解、しかもたとえ現場へ行ってみたところでどうということもなく、全的に把握出来るわけでもないものを、とにもかくにも身を起して出掛けて行く、彼をして出掛けさせてしまうところの、そういう内的な衝迫をひめた人、として私に見えているのである(P22)」

とノンフィクションライターか新聞記者かのようなリアリズムの持ち手があらわれるのであり、

「最後には、当世風な仏教までが蹴飛ばされてしまった。もとより山岳仏教にも、学問仏教にも用はない。最後の拠りどころである筈の仏教までが蹴飛ばされてしまったとすれば、私がこれまでに、彼の「私」、あるいは彼の心理の揺れ、揺れかえしのようなものとして、ひらき直った、居直った、ザマミロ、ふてくされ、厭味、トゲなどと言って来たものどもは、実は、ふてくされでも厭味でも、またひらき直りでも居直りでもなくて、さらにはウラミッラミでも厭味、トゲでもなくて、それは彼の方からして捨てられたこの「世」に対する長明一流の、優しい挨拶なのだ(P221-222)」

と晩年の長明をみる。このようなダイナミックな精神の運動を持つ人として表れる長明のほうが21世紀の読者には親しいのではないか。俳諧か何かの芸事の師匠が、わびさびの果てに蟄居したというような無常観の体現者とするいままでのみかたよりも、長明が近しくなるのではないか(もちろん以上は反語)。そのような人物を見出すのを繰り返し読むことでできるわけで、これは読書の達人にほかならない。そのうえ、乱世において世を捨てた長明を一つの極とすると、もう一つの極に罰せられて世に出て衆生救済そのものと化した親鸞が見えてくる、という指摘されると、こちらははっとして、親鸞の生涯や著作を調べたくなり、長明かくれたのちに親鸞のでたという13世紀の中世になにほどかの見通しをもてるのではないか。
 作家の自由な目は中世の乱世にとどまることなく、同じ乱世を敗戦直前の東京に重ねる。この作家の目と足もまた読者をはっとさせる。長明同様に作家も足のひとであり、「とにもかくにも身を起して出掛けて行く」のであって、空襲の翌日(11日)から上海出発(24日)まで、焼け払って平坦になった東京を歩き回る。死者の額に「阿」の字を書くことまではしないまでも、焼け跡に、川の中に、防空壕や蔵に無数の死者を見る。そして18日にあの「それ」を見る。そのとたんに、750年弱の時間の違いが無くなる。それで、13世紀の乱世と長明がわれわれの隣に来るのであり、彼らの言葉が現在のわれわれに突き刺さる。
 なにしろ、乱世である戦争期において死ぬことを予期している若者は

「歴史を捨象するとは、自己自らを運命と見倣すことであり、おのれ自体を、ニーチェの言う、AMOR FATE 運命愛として愛するより他ないということであろう。それが、このAMOR FATE が戦時中においての自己救済の方法であった(P218)」

と考えていた。同じ方法を中世に見出した時に、中世と現代をつながるのである。そのもっとも大きなもの(この国においての限定付きで)が「天皇制」とうことになる。

「『天皇制』というものの存続の根源は、おそらく本歌取り思想、生者の現実を無視し、政治のもたらした災映を民は眼をハチクリさせられながら無理矢理に呑み下さされ、しかもなお伝統憧憬に吸い込まれたいという、われわれの文化の根本にあるものに根づいているのである」。

その現れを15年戦争時のこの国の政権とそれに群がる人たちにみるわけだ。若者は死ぬことを見据えたうえで、「天皇制のない社会」を夢想するのであり、それはたんに天皇を退位させるということではなく、「本歌取り思想」をこの国の人々から取り除くという遠大な夢想にまでつなげようとするものだ。その夢想は戦後民主主義にいっしゅん見られたとしても、国民全体の支持や共感を得るまでには至らず、21世紀前半にも夢想となっている(戦争責任者としての昭和天皇が死去しているとき、戦争犯罪の視点だけでは天皇制の廃止というスローガンには結集するまい)。
 とここで自分ももう一つの戦後を夢想したくなるので、ここでやめておくことにする。
 ともあれ、乱世において中心にいるのではなく、傍から透徹した眼と健脚をもってその時代を歩き回り、書きとどめるという人を見出して、その書を読み、周辺事項を勉強し、歴史を立ち昇らせるという手法がここに見出された。こののち、作家はゴヤモンテーニュラ・ロシュフーコー伯、定家などの人にフォーカスし、この国と西洋の中世を立ち昇らせるという大きな仕事に取り掛かる。彼の方法は1971年、作家50代のこの仕事において確立しているのであり、以降の巨大な書物に取り掛かる前に、読者はまずこの小著から読むことを推奨。