odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

堀田善衛「歴史」(新潮文庫)-1

 1949年秋の上海。日本はポツダム宣言を受諾して武装解除したので、兵士・民間人から撤収・帰国しつつある。国民党軍と共産党軍は内戦状態にある。上海は国民党の支配下であるが、国際都市であったので英米仏軍などが駐屯していた。とりあえず国民党政府はあるもののほとんど機能していない。共産党はひそかに活動をしている。そういう時期。日本人の竜田は英語中国語が多少できるので、特務機関に留用されて(まあアルバイトであり捕虜だ)、翻訳をしたり、宣撫工作に使われたり。
 この経歴は作者堀田善衛に起きたこととほぼ一致する。作者自身の回想がある。
堀田善衛「上海にて」(筑摩書房) 1959年

第一部
序章 ・・・ 国民党の宣撫講演会で大学に行く。そこにいる学生たち(資産家の息女多数)の誘いで、竜田は深夜の学生の集まりに加わる。当時戒厳令で、午後11時以降の外出は禁止されていた。(竜田を面食らわせるのは、中国の学生にwar-time resistanceは日本になかったのかと問われたこと。その直前に日本のインテリは、監禁ないし軟禁、それも自己監禁、自己軟禁状態にあったのではないかと考えていた。もちろん日本ではwar-time resistance(抗日抗戦)はなかった。)

石を愛する男 ・・・ 討論会は康沢の屋敷で行われた。上海代々の富豪で、物資不足の時代に贅沢な宴会ができ、和洋の書籍を集め(日本語訳の左翼文献多数)、珍しい石・美しい石を集めている。この討論会は「革命」を目指している若者たちによるもの。中でも康沢は「プロレタリアではない」と疎外感があってももっとも過激な言辞を吐く。(一方、その屋敷では上海の富豪や官吏、ブローカー、密輸人などが密輸や救援物資横流しの相談をしている。中国にもアメリカの救援物資が送られていたが、安くときにただで配られる物資は地場産業を壊滅させ、投機の対象になってインフレを進行させていた。竜田はでたばかりのスノー「中国の赤い星」を読む。当然ながら現在を書いたドキュメンタリー。それは30年後には古典になっていた。)
 エドガー・スノー「中国の赤い星 上」(ちくま学芸文庫)
エドガー・スノー「中国の赤い星 下」(ちくま学芸文庫)

無人地帯(ノー・マンズ・ランド) ・・・ その密輸をやっている元特務機関員・左林(そのまえはマルクス主義者)が竜田を打ち合わせに招待。日本人のよしみで、という顔つなぎ。共産党のグループからはダブルスパイに、国民党の密輸グループからは囮になるだろう。決意と行動に決定的に欠けているインテリは状況に掉させず、流されてばかり。しかも不穏な雰囲気になっている。(異国に敗戦国民としていることは無人地帯にいるようなものと思っていたが、中国各地から流氓(りゅうぼう)が流れ込み、富豪が亡命している現在(1949年)は無人地帯ではない。)

不幸への意志 ・・・ アメリカからきたコンサルタント会社の高給社員と会食。戦争終結直後に、武器やガソリンなどの販売網を作ろうとしている。科学的合理主義のビジネスマン。思考からすっぽりと生きている人間が抜け落ちている。

「戦争があなたの云うようなosmosis(交流とか浸透とかいう意味の化学用語)の作用をもつものとすればあなた方は矢張りそのosmosisにもとづいて政策をたて、日本の産業を整備するつもりなのか?」/「それが歴史というものだろう」/もしそれが歴史であるとするならば竜田はいよいよ戦いが終ったのだとは思わぬことに決めよう、と思った(P114)

 上海の流氓が飢え、支援物資にカビが生えているのを見たとき、歴史はプロジェクトマネージメントやシステムオペレーションなどからでは見えてこない。すなわち、

「歴史は一重底ではない。歴史の底には、もう一つの〈歴史〉の流れが冷く流れている。時間を停止して考えれば、それは死者のビラミッドのようでもあるが、歴史の地下を流れゆくその冷い流れには、戦争に什(たお)れた人々の死骸が浮びかつ沈んで次第に流され忘れられてゆくのである。(略)機械仕掛けの運命に追われ放しの、数えることも出来ず、とりつく島もないほどに多数の人々は、つねにこの死者の世界と肩接して生きている筈であり、死者の世界に陥らされること‐についても、その距離は最も短い筈である。とすれば真に歴史を動かす潜在エネルギーもまた、運命に対して最も力弱い筈の多数者に於て最も強力な筈である。強力でなければならぬ筈である。(P114-115)」

 死者に含まれるのは、左林のような戦争ゴロの命令でむなしく死んだ日本兵士であり、戦闘で殺した敵兵士であり、彼らが殺戮した民間人や地元住民であり、戦争によって家を失い飢餓や凍寒で死んだ難民であり、戦争資材の生産のために過重労働を強いられた弱者であり・・・。こういう膨大な数の死者がアメリカ人のビジネスマンが作る新しい生産と歴史の下にいるのである。竜田のこの認識は正しいのであるが、生産・金融・固定資本を持っている巨大ビジネスや強力な政府の前では無力である。というかその声をかき消すほどにビジネスのマシン音は甲高い。そのために、ますます死者の記憶と記録は霧散してしまうのである。苦しい認識ではあり、どうしたものか。

 以上、第1部は「序」の状況説明。続いて「破」。危機的状況の深まり。

第二部 一九四六年中国
零点運動 ・・・ 上海の郊外でぼうとしているところに、討論会の出席者から米を預かるように頼まれる。米にしては異様な重さ。(日本軍が施政権を返還した上海は無政府状態。マフィア資本主義が横行して、インフレと物資不足が進行中。日本もひどかったが、上海はもっとひどい状態で、世界中から放置されていた。)

重慶の墓 ・・・ 重慶から来た日本人女性。慰問団として前線巡回中に俘虜になり、3年を過ごした。46年になって上海に移動。というのも、国民党軍と共産党軍の内戦が激しくなり、重慶の復興も進まず、脱出が必要になったため。内陸にある重慶は原材料を輸入しなければならないが、上海の機能がマヒしているので何も届かない。それは内戦が停止になると損をする人たち(たとえば左林)が投機とサボタージュをしているため。(この女性、荻原亮子(あきこ)は16歳で看護婦になってからレイプされ、慰問中にも軍人や派遣ブローカーらにレイプされていた。)

 

 堀田の小説の面白いのは、左林やアメリカの企業社員のようなビジネスマンや康沢の父のような財閥が出てきて、主人公のインテリが知らない政治や経済の裏話をするところ。荒唐無稽に思われそうな巨大プロジェクトや実在する政治家の寝技などが語られる。それを聞くインテリの主人公は「ふへえ」と驚きともため息ともつかない声を発して、何も考えられなくなってしまう。そういうとまどいや思考がクラッシュする様を描く。たいていの戦後文学者の小説では、インテリ同士が観念的な議論を続けるものだった。なので、この違いはとても鮮烈。自分がガキで観念的な議論が好きだったころは、堀田善衛の小説には夾雑物がいっぱいでそこが浅いように思った。企業で仕事をして、それこそアメリカの社員のようなプロジェクトマネジメントを経験すると、堀田の記述は正確であることにおどろくし、たいていの小説が個人と神喉力を問題にしていて、その間の組織や共同体をないがしろにしているのに対し、きちんと向き合っているのに感動する。
 左林やアメリカのビジネスマンのような存在はデビュー作の「広場の孤独」から登場していたが、その後もずっと継続。思い返せば、先に読み終えた「方丈記私記」「定家明月記私抄」でも彼ら文化人の役職や収入、家族や上司、ライバル等、労働もきちんと書かれていた。通常労働は生産活動(工場とか農地など)と思われるけど、それ以外でも労働があるのであり、きちんと書くのは「純」文学ではとても珍しい。

 乱世にあって知識人、インテリはどういう挙動をしめすか。これは堀田善衛デビュー以来の(著作を読むと学生時代からの)テーマ。戦時中から敗戦、占領期は抵抗から沈黙、転向から迎合、羞恥から開き直り、軽挙妄動から日和見から冷笑から高みの見物まで多数の類型が現れた。「広場の孤独」「歴史」「時間」「記念碑」「奇妙な青春」などの当時の現代を扱った小説では、博物館ともいえるほどの多数の人物が登場する。この観察と記録は継続して行われ、歴史上の人物まで広げられた。すなわち鴨長明藤原定家という日本に住む人から、ゴヤモンテーニュラ・ロシュフーコーにいたるヨーロッパの人々まで。
 ただこの人たちは戦うわけではない。路上にでてアピールするわけでもない。デモにも行かない。モンテーニュのように政治参画した貴族もいるが、たいていは庶民。庶民にも戦いや蜂起に参加する者もいたが、彼らは誰もが一線を画す。だから、路上に出てアピールする人やデモに行く人からすると、優柔不断で軟弱な日和見にみえる。
 そのかわりに、観察し記録する。後世の人がそれを紐解いて、当時の政治状況と抵抗の事実を知る。デモやアピールの具体的内容をしることができる。とても消極的にみえるが、時間軸を大きくとると、あとで重要になってくる。それも抵抗や抗議の一つの方法。
 で再び問う。インテリは乱世でなにをするべきか。

 

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2022/10/18 堀田善衛「歴史」(新潮文庫)-2 1953年に続く