odd_hatchの読書ノート

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堀田善衛「定家明月記私抄」(ちくま学芸文庫)

 藤原定家が19歳から晩年まで書いた日記「明月記」。漢文で書かれた日記を研究書や注釈書を頼りに読み進める。宮廷貴族であり歌人であることから、日記のほとんどは宮廷のできごと、儀式の備忘録。そこから荘園制から地頭制に移る権力の動きやほぼ400年続いた宮廷の衰亡の様子が明らかになる。

序の記 ・・・ 定家19歳で「紅旗征戎吾ガ事二非ズ」と書いたのを知って、「明月記」を戦時中、赤紙町の学生時代に入手。藤原定家(1162-1241)という二流貴族、職業歌人の概要。定家に代表される当時の朝廷文化の技巧的・芸術至上主義は世界でも珍しいという考え。

明月蒼然、定家十九歳 ・・・ 定家19歳にして日記を書きだす。当時の日記を書くのは貴族の流行であったが、同時に有職故実の記録であり貴族家業の業務に必須の情報であった(無数の朝廷内の儀式手順を知り指図するための道具である)。

俄ニ遷都ノ聞エアリ ・・・ 平安京の都市が境を持たないこと、人の流入が激しいこと、怨霊思想が代表的な思想で生活や儀式がそれにとらわれていたことなど。遷都はトップの思い付きであるが、それに巻き込まれる下々には苦労がある。その報を聞く長明と定家の違い。定家には歴史意識がない。

仏法王法滅尽 ・・・ 1181年には天文現象があり、巷に群盗が蔓延していて、黙示録的な末世観があった。定家19歳のとき式子内親王に面会する。

初学百首 ・・・ 翌年、京都に大飢饉発生(鴨長明「方丈記」に詳しい)。定家は100首を読み、現実の反映のない芸術至上の歌を詠む。朝廷は、自立しているものでもなく、自立していないものでもない。それを常識としては「フィクション」と呼ぶという説明。この時期の宮廷人はヒステリック(感情の動きが激しい)だったとのこと。

明月記欠 ・・・ 定家20-30代、世にいう「文治建久の世」の動乱時代の明月記はかけているが、ほかの資料で埋めることができる。和歌とは、こたえる歌、つねに応答、交換を期しているものという説明。

堀河院題百首 ・・・ 定家の第二作。愚作ではあっても家業は継げるという見通し。平氏が源氏に代わっても宮廷がそのまま存続できる(疑念すらわかず)という不思議。

西行との出会 ・・・ 1186年。西行69歳、定家25歳の年、西行が定家を訪ねる。西行は思想家、政治フィクサー歌人として巨大な人物。西行と会うことで定家は決断する。なお

「皇を取て民となし、民を皇となさん」とこれほどに猛烈な革命的言辞をなした人は、日本の歴史には他に親鴬ただ一人なのである」

という指摘も重要。

花も紅葉もなかりけり ・・・ 西行、定家ら宮廷人の時代閉塞の感。

後白河法皇死 ・・・ 1192年。平安末期の政変、動乱の時代に34年間法皇であった後白河の死去。天皇家

元来「遊手浮食」の徒、「無縁の輩」等の「道々の輩」、すなわちこれら路上の遍歴民を統轄し保証をする存在であった(P97)」

こと。それは社会の上層部が貧しくなり、文化創造の力がなくなってきていることを意味するだろうという。

再び明月記欠 ・・・ 定家32-34歳。母の死、結婚。当時の宮廷の姻戚関係のわけのわからなさについて。
心神甚ダ歓楽 ・・・ 36歳。病気という言葉を忌むために「快楽」と記述する。子女の後見人として物入りの多い生活。

九条家の人々 ・・・ 1196年。建久七年の政変、時の関白九条兼美のクーデターと失脚。定家は九条家に連なるもので、政治的・経済的・文化的に大衝撃を受ける。

夢の浮橋 ・・・ 定家37歳。「教養による人工の極」としての夢の浮橋の句。金がなく、体調も悪い。後鳥羽法皇はしたい放題の乱痴気騒ぎ。そこに「夢の浮橋」をかけるという超現実の趣き。

連夜寒風。衰齢三十八 ・・・ 1199年。源頼朝死去。体調不良、金がないうえ、夜の勤務で大変。

明年革命、巳ニ以テ眼ル在ルカ ・・・ 律令制はとうに形骸化し、宮廷は金をださないようになり、地方では地頭が荘園を強奪し、頼朝死去で幕府の権勢もさほどでなく、荘園の上りで食っている貴族には大変な時代。定家も例外ではない。

天下ノ事、不思議多シ ・・・ 1200年。同世代に死ぬものもでる。宮廷の色好みに対して、東国武者の潔癖が道徳になろうとしている。

家鶏官班ノ冷キヲ識ラズ ・・・ 同年。後鳥羽法皇が勅撰集制作を発表。選ばれるか気もそぞろ、選ばれると禁の題で歌を詠んでしまう。至誠があれば通じるという日本的な無責任を作家は見る。のち後鳥羽院も黙認。

道ノタメ面目幽玄ナリ ・・・ つくるためにつくる和歌と存続するために存在する天皇制の親近性。九条家歌人から後鳥羽院直属の歌人になる。鴨長明が明月記に初登場。

後鳥羽院・大遊戯人間 ・・・ 1201年。式子内親王の死。和歌が

「精神の遊戯空間で行われるものであること、祭祁、社交遊技、競技であること、詩とは学識の夢のごときものであること(P163)」

色好みも遊戯。一方東国武者はまじめで殺伐。

熊野御幸 ・・・ 後鳥羽院に従っての熊野詣。中将になれるようにと祈願。

河陽ノ歓娯、休日無シ ・・・ 1202年。「新古今風な歌体を完成した劃期的な年」であり、その作品は「これらに比べればフランスの象徴派なども、もっと日常に近い」と芸術上の完成を見るのであるが、その未病差を味わうには宮廷生活があまりに遠く、「わかったような顔をしてみてもはじまらない」のである、と。

講蓋ノ景気ヲ望ミ、独刑ソ感ジ思フ ・・・ 望んでいた中将にはなれず、貧窮はさらず、敬愛する兄が死去。この年の作歌わずかに44首。

定家は左右なき物なり ・・・ 1203年。42歳で中将になり、花見にでかける。定家、家長、長明などの文化人参集。章題は後鳥羽院の定家評。頑固者の意。

父俊成九十の賀 ・・・ 歌業の名誉ある日であるが、定家は一字も残さず。「日本文学史上の、高踏の頂点」と作者はいう。新古今和歌集を編集中。後鳥羽院は遊行にふける。鎌倉ではクーデター、京都では付け火に強盗。

橋姫の美学 ・・・ 1204年。「橋姫」は恋愛や悲恋のアイコン。この時代には橋姫を歌うことが頻繁にあった。この流行の背後には貴族階級の貧窮があり、女性の財産相続権が空洞化し、男女同権の平安時代の恋愛ができなくなっていたことがある。

父、俊成死 ・・・ 享年91歳。臨終のことば「死ぬべくおぼゆ」。

新古今集部類、寛宴 ・・・ 1205年。新古今集の編集作業。伊勢物語の引用が食器ほかに施された文学的酒宴。完成の宴もあったが、後鳥羽院はこのあとも編集作業を15年続ける。

強盗・放火・新邸・元服その他 ・・・ 身辺の状況。荘園問題があるが、このころから経済状況良好に。

良経暴死 ・・・ 1206年。兼美の息子良経死去。享年38歳。こののち定家と九条家が疎遠になる遠因に。

「定家・有家にがすな」 ・・・ 連歌の流行。後鳥羽院も影響されて連歌会を開催したが、その際に「定家(略)にがすな」であって、歌人としての定家は連歌の流行に苦々しげ(連歌は風刺、批判の文学で、定家などが対象になる)。新古今に芸術至上の最高峰があるとすると、その時代にはすでに文学的想像力が枯渇し、庶民・下郎のまねごとをするようになる。その一例。

近日、時儀更ニ測り難シ ・・・ 1207年。兼美死去。この年、後鳥羽院は専修念仏(せんじゅ)の首謀者たち、法然親鸞が含まれる、を流刑に処す。

沈満ノ愚老、今二存念 ・・・ 後鳥羽院に翻弄される。

不運ノ専一、恥辱ノ無双カ ・・・ 1208年。47歳。自分の息子ほどの貴族と同じ位階。

「自負、自信と、恥辱、絶望とが鈍のように彼の身を削るのである」。

末代ノ滅亡、働突シテ余リ有リ ・・・ 

「この時代の権力形態を、京都を公、鎌倉を武として、公武という言い方で表現するとして、そこにもう一つ、国家宗教としての法というもう一つの単位が入らなければならないであろう。公、武、法である(P265)」
「人々の実感としては、鎌倉はおそらく別個の民族、別個の国家として感じられていたであろう(P267)」
「仏法の末法時に入っていたこと、二皇併立のために神器なしで即位をした天皇、この両者相まって末法、末世意識が朝臣をはじめとして一般に鯵透(P267)」

していた。

明月記欠 ・・・ 定家48-50歳前半まで。「新古今集のもっとも重要な編者として、家のものとしての歌学をほぼ確立しえたことの自信にも基」いて、歌をつくる気持ちがなくなりかけている。存続のみが自己目的になると、独創を欠くものになる(俳諧、連が、茶、能、花道など日本の文化事業はみなこのようになる。


 作家の慧眼でとくに目のついたところはすでに上のサマリーに引用した。なるほど、こうしてみると教科書のような書き方では貴族から武士への社会変動は一枚岩ではないことがわかる。
鎌倉幕府(成立年は1192年から1185年に変わったらしい asahi.com:中学校の歴史 1192は違うの?鎌倉幕府成立 - 教科SHOW - 小中学校 - 教育)。近代国家のように、国家の領域や概念がある程度明確であれば、いちどきに政治の仕組みが変わるということもあるが、この時代はそうではない。奈良・平安時代律令制は西日本(という呼び名もふさわしくないだろうけど)ではまだ生きていたが、関東の東国では幕府に通じる地頭にとってかわり、その間の地域では荘園と地頭の争いは多々あった(定家の荘園でもそういうことが起きている)。このあとも貴族支配の荘園は縮小しながらも継続し、直轄地以外はほぼ武士の手になるのは江戸時代になってからだろうか。まあ、この国土には二重・三重の権力があって拮抗していたのが、平安末期から江戸時代になるまで。
・朝廷という権力組織は豪族が併存していた古代においては、新しい力(政治的、経済的、文化的など)を生み出すシステムになった。おおよそ8世紀に成立して、最盛期が10世紀。それからさらに200-300年たった平安末期になると、「存続のみが自己目的になる」組織に変貌。まあ前例主義と年功序列が大切にされる仕組みになっている。この朝廷のおかしさは土田直鎮「日本の歴史05 王朝の貴族」(中公文庫)に詳しく、土田の本が西暦1000年の前後50年の100年の時代のまとめでありながら、「明月記」の描写と同じであるのにびっくりする。たとえば空海が持ち込んだ密教の儀式は斬新で先進的であり危機や困難に対応する臨機応変さがあったが、500年も経過すると、その種の自在さはなくなり不自由になる。定家ほかの貴族が前例を保全し、踏襲することに汲々としていた理由。
・しかも、平安末期のこの時代は、自然災害や飢饉が頻発し、律令制の権力の弱体化で治安維持が難しくなり、社会の生産性が低下(一方で宋銭の流入で経済体制が変化しつつある)。このような危機や困難に朝廷は対応しない/できない。にもかかわらず、それが当然であり、滅亡しないと思うのも朝廷文化のあり方(作家はそれを「天皇制」と呼ぶ。念のためだが、明治憲法制定から1945年敗戦までの政治体制とは別)。
・下からの改革運動はあって、武士の隆盛もそのひとつだが、さらに庶民・地方豪氏・知識人にもあって、具体例は網野善彦「日本の歴史をよみなおす」(ちくま学芸文庫)などを参照。