ショスタコーヴィチのわかりにくさは、音楽作品のあまりの多面性(初期と晩年でずいぶん違うし、大規模作品と室内楽でも異なる)があるほか、友人にすら本心を明かさないかたくなさがあって、一方ソ連の社会主義リアリズムのスポークスマンでもあって……という具合の複雑さが認められるところにある。そのうえ、1917〜1990年までのソ連社会主義連邦の情報統制で、党が称揚しているという情報以外がほとんど流れなかったことも影響した。なので、長い間、自分らのみたいショスタコーヴィチをそれぞれ勝手に描いていたのかもしれない。ヴォルコフ「ショスタコーヴィチの証言」が登場したとき、多くの人が「証言」に、ソ連の知られざる反体制運動を重ねるように読んだというのも、その表れだろう。
ショスタコーヴィチの伝記は資料の乏しさのために邦文のものは限られていた。1990年代半ばころまでは、作品解説やスコアを除くと、
井上頼豊「ショスタコーヴィッチ」1957年
ドミトリイ・ソレルチンスキー「ショスタコービッチの生涯」(新時代社)1984年
ドミトリ・ショスタコービッチ「ショスタコービッチ自伝」(ナウカ)1985年
ソロモン・ヴォルコフ「ショスタコービッチの証言」(中公文庫)1980年
くらいしかなかった。
1980年代ソ連のグラスノスチと崩壊後の民主化によって、研究者が資料にアクセスしやすくなる。今まで断片的だった情報を一次資料にあたったり、存命する関係者にインタビューするなどして、作曲家の生涯を書き直した。2000年に出版されたこの本には、これまで「本当にあったこと」が伝説であるとわかったり、知られていなかった情報が書かれたりした。ショスタコーヴィチの生涯をとらえるにはまず、このローレル・ファーイ「ショスタコービッチ」を参照することが必要だろう。上記の古い本に書かれたものは参考用になった。
ただ、注意しなければならないのは、この本は作曲家個人に焦点を当てているので、社会や世界の大状況は詳しく書かれていないところ。作曲家は共産党によって2回非難されたのだが、そのとき共産党や国家はどのような政策にあったのか、どのような事件が背後で進行していたのか、ほかの人にどのようなことが起きたのかなどはほとんど触れられない。なので、この本だけではどうして芸術家(のみならず民衆、市民、マイノリティなど)への監視と統制と刑罰が行われたのかが理解できないだろう。ソ連が健在中で読者には新聞報道などでほぼ自明だった事柄が、崩壊後四半世紀を経て、多くの人が記憶を持たないとなると、別に資料を読み込む必要が出てくる(2015年の再読の時には、自分も思い出すことを意識しなければならなかった)。そうしないと、共産党による批判でショスタコーヴィチは弁明と貧困と逼塞を経験しただけで済んだのだが、ほかの作曲家(モロソフとかヴァインベルグとか)には拘留や収容所送りなどのより厳しい処置がなされたり、演出家メイエルホリドのように粛清された者もいるところまで想像力が及ばなくなるだろう。ショスタコーヴィチに起きたことは厳しいものであるが、ほかの人に比べれば彼は優遇されていたのだった。
話を先取りしすぎた。
ショスタコーヴィチの生涯を見るとき、1)神童からロシアアヴァンギャルドの新進作曲家として世界的名声を獲得する時期(28歳まで)、2)ソ連を代表する作曲家、公務を持ちながらも文化官僚の批判にあう時期(28歳から52歳まで)、3)難治疾患にかかって生活が不自由になっていく時期(50代以降)、と大雑把に分けることができる。
作品では、1)初演から好評、2)専門家には好評、3)文化官僚に非難、4)迎合に見られる作品、5)意図を測りかねて困惑、にわけられる。1にあたるのは、交響曲第1番、第7番、ピアノ五重奏曲、弦楽四重奏曲第8番など。2にあたるのは、ヴァイオリン協奏曲、ピアノ三重奏曲など。死後には晩年の弦楽四重奏曲第15番とビオラソナタが高評価になる。3にあたるのは、「明るい小川」、「ムツェンスク郡のマクベス夫人」、交響曲第8番、第13番「バビ・ヤール」など。4にあたるのが、交響曲第5番、「森の歌」、祝典序曲など。5にあたるのが交響曲第6番、第9番、24の前奏曲とフーガなど。
生涯の時期と作品傾向のマトリックスを作ると、升目はたくさんできる。そのうえこの人は作曲の筆が非常に速いうえに、一度書いたものを改訂することをほとんどしなかった。共産党の非難で逼塞していた時期に大量の映画音楽を書きもした。20世紀の多くの作曲家が時間をかけて丁寧に遂行したためか、作品数が少ないのに対し、ショスタコーヴィチの多作はめだつ(ほかにはメシアン、ミヨー、ヴィラ=ロボスかな)。そのうえ、作品のジャンルと傾向が多様。どこから入っていけばよいのかわからない作曲家だった。(上にあげたところから入っていくのがよいと思う。交響曲だけに注目すると多様性を見失うことになりそうで、ほかのジャンル、特に室内楽を聞くことは重要。)
以上をイントロにして、ショスタコーヴィチの生涯をみることにする。
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2016/06/22 ローレル・ファーイ「ショスタコービッチ」(アルファベータ)-2 に続く