odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

筒井康隆「私説博物誌」(新潮文庫)

 小説家の筒井康隆の父が、京都の動物園園長などを務めた筒井嘉隆であるのを知ったのは、このエッセイを読んだずっとあとで荒俣宏博物学関係の本だった(タイトルは思い出せない)。なので、小説家にしてはえらく博物学に詳しいなあと感心した(後付けで言うと、光瀬龍「ロン博士の虫眼鏡」とかシルヴァーバーグ「地上から消えた動物」のようにSF作家には博物学趣味を持つ人が多数いるようだ)。
 さて、1975-76年に雑誌連載されたこのエッセイは、多数の動植物が登場する。自分の読んだ全集18巻の目次には動植物名がないので、ここに記しておこう。
イボイノシシ/コモリガエル/アズマヤツクリ/ワニ/ヤドリギ/アシカ/グンカンドリ/ミズグモ/フウセンウサギ/シリコニイ/フタゴムシ/ハンミョウ/ユーカリ/イナゴ/グァナコ/ポネリア/センゼンコウ/キュウケツコウモリ/モア/トリフィド/リュウグウノオトヒメノモトユイノキリハズシ/クズリ/トビケラ/キュウカンチョウ/ボウリュウ/シャカイハタオリドリ/ナマケモノ/タツノオトシゴ/アホウドリ/スイセン/デンキウナギ/リンゴマイマイ/イソードン/ホオジロザメ/ホウセンカ/アカウアカリ/カメレオン/ワライカセミ/ツバイ/マツタケ/スカンク/イスカ/コバンザメ/ジュウチュウ/テングノムギメシ/ミチバシリ/スキアシガエル/タランチュラ/カッパ/ヒト
 なんというか専門を限定しないで、ほ乳類から群生生物のコロニーまで、そこらにありふれた生き物から絶滅した生物までを取り上げる。生態の面白さよりも語感の面白さで選んだものもあるだろうし(同じ時期に「ポルノ惑星のサルモネラ星人」の参考にしているだろう)、極めつけは虚構の生物も紹介する(どれか見つけてみて。できれば出典もあげてみて)。SF作家の興味関心のありかたは何とも奇天烈なものだと感心しそうなものだが、博物学史を紐解けば、虚構の、架空の生物も博物誌に含めるのは当然のことであった。それは上記と同じく荒俣宏の「世界大博物学図鑑」全5巻で知ることになったのだが、その15年もまえにすでに実践していたことに驚きを持った。
 さて、エッセイは取り上げた生き物の生態や形態を紹介する。とりわけ、食と性と排泄に興味を持つ。著者の小説にはどれもよく登場する話題。父や動物行動学の日高敏隆などの監修が入っていて、当時の情報としては正確きわまりない。勉強になったのは、「吝嗇の法則」で、動物の行動の理由を考えるときはもっとも低級な解釈を採用するのがよいというもの。なるほど生物の行動を解釈するとき、われわれは擬人化(○○という行動は××人と同じである)、比喩(○○という行動の意図は××のようだ)、過度な一般化(この種の○○という行動は生物全般にみられるものである)、特殊な事例を普遍化すること(同前)、個々の政策の妥当性や批判の根拠を動物の行動事例に求めること、個別事例からの体系化などをやらかす(日高敏隆「動物にとって社会とはなにか」講談社学術文庫の感想参照)。それを避けるときの心構えとして「吝嗇の法則」は役に立つ。
 でもこれらは全体の半分。残りは、その生き物から連想する人間の類型や行動を語る。あれ、吝嗇の法則に抵触しないかな。大丈夫、あくまで人の類型や行動を面白がるだけで、生き物の解釈には踏み込んでいません。で、上記のようにおよそ70種の生き物を取り上げるということは、それに対応する人間の類型や行動をみつけていることだ。すなわち、著者は生き物を取り上げるのみならず、それに対応する人間も見つけているわけで、人間の類型や行動の収集と分類の作業があって、このエッセイができているわけだ。なんとも手間のかかった仕事。
 著者は「俗物図鑑」「家族八景」などでみるように、人間の類型や行動の収集家であるから書くことのできた小説もあるわけで、年季がはいっている。そこにはユングの性格類型などを参照していると思うが、それだけではない細かい観察もある。著者はほかにも観察と収集と分類を行っていて、博物学の方法を身に着けている人であった。これも30数年ぶりの再読であるが、個別の記述よりも方法と技術のほうに驚かされた。
 不満は、紋切り型の文章が点在していること(「のである」の多用。あと「〜〜と思うのはぼくだけでだろうか」のような)。これは数年後には克服されている。