odd_hatchの読書ノート

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山形浩生「新教養主義宣言」(河出文庫)

 ざっとおさらいをすると、教養主義の起源は19世紀ドイツ。それが丸ごと輸入された1920年代からこの国の人口に膾炙。とくに知的エリートである大学生に普及した。そこには多少政治的なかかわりもある。1920年代に社会主義アナキズム、それに抗するナショナリズムの運動が学生にあった。政治的な活動が制限・弾圧されたりしたとき、彼らにかかわるまいとするノンポリが対抗アクションとして教養主義を選択した。このときは、とにかく教養を身に着けることが大事であり、それを実践することで徳の獲得、人格的完成、修養になると主張した。ここには二つの問題があって、ひとつは獲得するべき教養が西洋の規範で選ばれたこと(端的にはドイツの文芸、哲学、芸術が中心)、もうひとつは獲得した教養を生かす方法を示さないこと。もともとのドイツ教養主義には、分断されたドイツ国家を一つの国民国家に統一するという民族主義運動のモチーフがあったがここは無視された。まあ、知的スノッブが教養をもてあそび空疎な議論にふける(それによって自由や民主主義が蹂躙されても気にしない)ことのいいわけに働いたわけだ。なので、当時の学生が30-40年後に大学や行政の責任者になったとき、孫世代の若者の異議申し立てに応えることができず(もちろん異議申立者の言い分も極端になることもあった)、嘲笑の対象になった。出来の悪いのが淘汰される分にはよかったのかもしれないが、あわせて教養を獲得する行為そのものも馬鹿にされ、実践されなくなった。1970年代には教養より感性が大事というようになって、教養より生活を優先にともいわれて、政治運動から後退したのみならず、教養を身に着けることをしなくなった。

 以来40年以上経過。そうすると、教養を持たない人が社会にたくさんいるようになった。結果、物語を追えない、言葉の多義性多様性を理解できない、科学技術の最新の話題を追いかけない、などがとくに若い人にみられるようになった。なんとも嘆かわしい。21世紀の日本は20世紀後半で蓄積した遺産(資産や名声など)を食いつぶしていて、そのうち世界から経済でも政治でも文化でも相手にされなくなるよ。
 そんなことじゃまずいんであって、俺らはもっと教養を身に着けようぜ、というのが主張。1930年代の教養主義は批判されたように古臭いし、徳とか修養とかを目的にするのはおろかしい。そうではなくて、教養は生産性を向上するツールになるんだ。生活、労働、活動のどの場面でも有効に働くんだ(あるいは不要なリスクテイクを回避し、損を被らずにすむのだ)。
 生産性向上だが、まず教養は意思決定や行動の誤りを少なくすることができる。これって大きい。ニセ科学やニセ医療、オカルト、陰謀論などは教養をもっていると、馬鹿げたことだと判断できる。でも、教養がなくてこれらに入れあげてしまうと、資産を失い、自分の命を失う。ときには他人の資産や命も「善意(ここ重要)」で奪ってしまうこともある。
 もうひとつ、教養は意思決定から行動までのプロセスの生産性を向上させる。まあ、時間を短縮するとか他のオプションを考え付くとかリスクマネジメントが万全になるとか説得や納得の理窟をつくれるとか、そういったことで。で、どの教養がどの意思決定プロセスに役立つかは前もってわかるわけではないし、労働や活動や生活の在り方なんかはみんな異なるから、どの教養が不可欠であるかは決められないけど、古典から最新の話題まで幅広くやっておくのがいいね。読み手である自分は、高校教科書が教養のベースになって、ここを身に着けて、そこから広げていくのがよいとおもう。
 あとこの指摘は重要。

 以上が最初と次の章の、おれのまとめ。思いっきりバイアスが入っていると思う。
 続く章は、実践編。SFや古典の読み取りから、メディアやネットワークについてに、経済と民主主義にと、ターゲットや話題は幅白い。1990年代に書かれた文章が2016年に読んで古びていないのはすごい(のかこの国の変化しない在り方に問題があるのか)うえ、まだ役に立つ(上記の意思決定や行動のプロセスで生産性をあげることができる)。著者の高飛車な書き方と知的エリート主義に反発する人もいそうだが、おれはそこがよいと思う。
 ただ、1999年当時には新しかったリフレ政策を推奨しているが、この国は2014年からやってみたけど、うまくいっていない。リフレ論を主張したクルーグマンもどこかで見通しを間違ったといっていたかな。消費税増税でなるほど3か月ほど消費は増えたが、しばらくして需要が収縮してしまった。
参考エントリー:
片岡剛士「円のゆくえを問いなおす」(ちくま新書)
 あと青空文庫著作権の切れた文章がフリーテキストになっているけど中身がしょぼい。というのも、この国の知識人や書き手で100年を超えるような射程のすごい文章を書いた人がいないから(西洋の、たとえばデカルト以降の哲学本とか、スミス以降の経済本とか、ダーウィン以降の自然科学本とかと比較せよ)という指摘は残念ながら正しい。