odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

トーマス・マン「ファウスト博士 中」(岩波文庫)-1 エリート主義のドイツ精神は資本主義と民主主義で消えてしまう

2023/04/17 トーマス・マン「ファウスト博士 上」(岩波文庫)-2サマリー 1947年の続き

 

 この小説はアドリアン・レーヴェルキューンという「天才」作曲家の伝記なのであるが、彼を書く以上の熱意をもって、語り手の現在を記す。すなわち、ヒトラーが始めた戦争は伝記を書き始めた1943年には戦局が悪化しつつあり、以後好転することなく(ヒトラーの大言壮語が何一つ実現することなく)、「帝国」は破滅するのだった。そのときに、語り手は以前のドイツを懐古する。現在がどうしもようなく悪や混沌に満ちているとき、打開する先は過去にしかないのだ。

 過去に見出すのは「ドイツ精神」。この概念はたとえば「哲学は学術を概観し、精神的にまとめ、あらゆる研究領域の成果を整理し醇化して、世界像に、人生の意義を解明する支配的、決定的な綜合に、宇宙における人間の位置の観照的規定に、仕上げる」というもの。このような概念を共感・共有し、人格修養を経て高貴や偉大を実現していくのがドイツ人であるとされる。どうやらドイツ人は生まれながらにしてドイツ人になるそうなので、極東生まれの別言語を使う俺のようなものにはドイツ人にはなれそうにない(まあ、日本人も生まれながらに「大和魂」を持つことになっているので、ナショナリズムの偏狭さはお互い様)。
 批判点をみるとすると、「ドイツ精神」はアプリオリに民族に備わっているとされるのだが、実際のところはそれが成立するのは歴史的に特別な時期だけだ。立憲君主制になって貴族のほかの資産家実業家が政治に関与でき、資本主義が国民の富を増やして余暇を得られる階層があることが前提。そうすると、「ドイツ精神」は18世紀以降の特殊な時期にだけありえる国民統合の概念であるとわかる。しかし資本主義は国家を超えて膨張し、封建制の階級制度を破壊する。危機は19世紀末の資本主義の隆盛から起こる。工業化の富は貴族やディレッタント階層を没落させ、実業家を富ませ、労働者階級に政治的意識を生む。
2023/03/18 小宮正安「モーツァルトを『造った』男」(講談社現代新書) 2011年
2012/02/01 ゲルハルト・ハウプトマン「日の出前」(岩波文庫)
2012/02/02 ゲルハルト・ハウプトマン「織工」(岩波文庫)
 こうして社会が流動化する危機は第一次世界大戦でまず訪れる。これは国内の危機の顕在化とみさせる。「ドイツ精神」を成立させる立憲君主制が崩壊(ドイツ皇帝が退位し共和制に移行)し、資本主義のグローバル化で貴族・ディレッタントが一斉に没落し、労働者が政治的権利を行使するようになる。資本主義と民主主義は、「ドイツ精神」が無くなる危機なのである。その問題意識は1920-30年代のドイツ知識人が共有していた。
 通常大戦間のドイツの危機は社会主義共産主義の運動から説明される。
2021/02/25 エーリヒ・マティアス「なぜヒトラーを阻止できなかったか」(岩波現代選書) 1960年
2021/03/05 林健太郎「両大戦間の世界」(講談社学術文庫)-1 1976年
2021/03/04 林健太郎「両大戦間の世界」(講談社学術文庫)-2 1976年
 1920年代のワイマール共和国は、彼らのような「ドイツ精神」の持ち主からすると、国民統合の理念を作れないいびつなものだった。このようにドイツの「伝統保守」もドイツの危機を打開する方法を検討していた。ナチスに期待したのは、強いナショナリズムによって「ドイツ精神」が復興されることだっただろう。
2017/06/23 マルティン・ハイデッガー「形而上学入門」(平凡社ライブラリ)-1 1935年
 しかしナチスレイシズムとジェノサイドは人間そのものの尊厳を平等に無視するものだった。(ハイデガーと違って、トーマス・マンナチスの粗野と階層の破壊などを嫌って、政権誕生前後に亡命した)。 
 ナチスへの期待は第二次世界大戦の敗北で失われる。これは、アメリカの資本主義とソ連全体主義によるナショナリズムの乗り越えだった。アメリカの資本主義は官僚統治の革新主義(プログレッシブ)となり、ソ連全体主義も官僚による支配であった。これらが「啓蒙」の制度化が社会と政治の全体に波及した結果であった。もともとエリート主義の「ドイツ精神」はフランスの啓蒙主義からでてきた政治への自由とは相容れないのだが、啓蒙があまねく世界を覆ったので、その「野蛮」が「ドイツ精神」を葬ったのである。
2021/12/09 テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」(岩波書店)-1 1947年
2021/12/07 テオドール・アドルノ/マックス・ホルクハイマー「啓蒙の弁証法」(岩波書店)-2 1947年
アドルノが、アメリカの資本主義と文化産業、および中世からルネサンスのドイツ文化を嫌った理由が、マンの「ファウスト博士」を読んでようやくわかった。「啓蒙」の野蛮さはナチスだけに現れたのではなく、アメリカとソ連という両極端の政治体制にも在ったとするのだ。)
 トーマス・マンのみならず、ハイデガーアドルノらにも「ドイツ精神」からの啓蒙批判が共有されているというのが中巻を読んでの発見。彼ら三人はアメリカの大衆社会ソ連全体主義を嫌悪する。それらを生み出した資本主義と技術も嫌悪する。19世紀生まれのディレッタントたちは、本書で懐かしく書かれている1890-1910年のドイツ社会を懐かしむ。彼らの青春が充実したのは、国内植民地といえる国内の産業労働者を搾取したから(上掲ハウプトマンやチャペック「ロボット」「山椒魚戦争」など)。そのことに目をつぶって、エリートたちのナショナリズムを継続するのはWW2以後はもはやアナクロでしかない。1945年以降のドイツの歴史は「ドイツ精神」を克服していく過程とみなせるだろう。
 以上の歴史のみたては、下記が参考になる。
2012-11-27 2012バイロイト音楽祭の「パルジファル」について

odd-hatch.hatenablog.jp

 

 では日本の皇国イデオロギーはどうすれば克服できるか。皇国イデオロギーはWW2でまだ一回しか負けたことがない。もう一回負ければ克服可能かもしれない。ドイツでは「啓蒙」の理念であり野蛮でもある大衆社会が「精神」を崩壊させたのだが、日本の皇国イデオロギーは最初から大衆社会を織り込み済だと俺は見ているので、どうすればいいのか見当がつかない。


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2023/04/14 トーマス・マン「ファウスト博士 中」(岩波文庫)-2サマリー 1947年に続く