タイトルこそヨハン・シュトラウス(息子)個人であるが、主人公はハプスブルク帝国そのもの。なるほどこの帝国の栄光と没落はこのワルツ音楽の大家に具現しているわけか。
この本の記述にそうと、19世紀のハプスブルク帝国の歴史はこんな感じになる。前の世紀(?)に建てられたハプスブルク帝国は、ほかの帝国の王様や貴族たちと姻戚関係を結んで、王族の連合みたいなのをつくっていた。その中心がウィーンにあったということになる(なので、ルイ16世がウィーンの王女を妻にしたとか、スペインの王だったか王妃だったかもこの家出身だったとか)。そのような絶対王政はまずフランス革命で危機に陥る。ナポレオンがロシア遠征に失敗し、失脚したあとは、ハプスブルク家の反動。フランスが王制に戻ったのに合わせて、周辺諸国の王制を強化した。そこで、出版や表現の自由が抑圧され、自由な市場も形成されなかった(まあ、規制がたくさんあって新規参入できない)。資産を蓄えつつあった市民が、王制に異を唱えるようになり、1848年の二月革命になる。パリの革命はよく知られているが、ウィーンでもあったわけだ。ハプスブルク家は一定譲歩して市民の権利を認めるが、労働者がさらに革命を推し進めようとしたので、市民やエリート、ブルジョアは革命を回避する。メッテルニヒは失脚して、新たな王様を擁立。数年間の戒厳令のあと、自由主義政策をとる。城壁を破壊して汽車を走らせるとか、新たな巨大建物の建設を進めるとか。公共投資を活発にして経済を発見させ、税収を増やそうというやり方だな。それからの20年間は、ハプスブルク帝国のバブル期。この時代にヨハン・シュトラウスの音楽が大流行。そのときヨハンは30-40代で若かった。母がマネジメント、弟もタレントにして、音楽産業を一族で経営する。収入が莫大に入り、人気も獲得した絶頂期。しかし、1870年代にプロシャとの戦争に敗れ、株価大暴落が起きる。一転して、不況と貧困。経済停滞から抜け出すことが難しい。市民には反自由主義と排外主義の気分が生まれる(長期不況がこのような退廃を生むのだよな)。シュトラウスは舞踏音楽の書き手から、オペレッタやオペラの作曲家への転身を図るが「こうもり」以外はヒットしない。人気はあるが、次第に憂鬱になって、1899年に73歳で死去。ハプスブルク帝国は1918年の第一次世界大戦の敗戦と一緒になくなる。最大時はハンガリーや北イタリアも版図にあった大帝国も、オーストリア共和国の狭い領土に縮小する。
自前の巨大な産業をもたないし、植民地を持たない。イギリスやフランスから遅れて成立したこの「帝国」は交易と外交によってその地位を保全するという、綱渡りのような政策をとることになる。洗練されてはいるが新たなものは受け入れにくく保守的な場所(のちにウィーン歌劇場の総監督になった異邦人グスタフ・マーラーが苦労する)。ワルツは18世紀末に誕生した粗野で威勢の良い民衆の舞踏であったが、ウィーンではやったのは資産を持つようになった市民が熱中したから。一代で成り上がった市民が彼らに理解できる範囲の通俗的でわかりやすい文化を望んだというのがあり、出版や表現の自由が抑圧されていたので文化の趣味が音楽に向かったというのも背景にあるだろう。市民やエリートがピアノを買って、妻や娘に演奏させるようにしたのもこの時期。とはいえ、粗野で荒々しいままではさらに上の貴族階級に嫌われるので、優雅で上品であることが求められ、それをつくったのがランナーと父ヨハン。息子ヨハンは、それを継承しつつ、音楽産業に拡大し、量産し、ブームを仕掛けていった。この人ほど音楽産業で成功した人はいないのではないかな。そのあたりがハプスブルク帝国の栄光に重なるわけだ。
この本では、市民やブルジョアの文化に注視しているので、ハイブロウな音楽家が一切無視されている。リスト、ワーグナー、ブラームスという人たち。彼らの収益は市民に大流行した作品に支えられていたが、「芸術」に捧げる作品は作曲家には重大でも、ヒットしたわけではない。この辺りの事情は「クラシック音楽」の歴史では見逃されるので、クラオタの自分としてはとても新鮮な見方だった。
書き手は当時31歳の若手ドイツ文学研究家(2000年初出)。指導教官に池内紀@「モーツァルト考」(講談社学術文庫)がいたみたいで、音楽や社会の見方がよくにている。まだ若いせいか、話題の拡げ方や事物のフォーカスの仕方があんまりうまくない。10年くらいあとになると、19世紀ウィーンをもっと生き生きを描けるのではないかなあ。知らないだけでもう出ているかも。
さて、ウィーンワルツについて思い出話など。
1.ウィーンのニューイヤーコンサート(の放送)を自分が初めて見たのは、1981年のこと。そのときはNHKはビデオテープの輸入を待っていたので、放送は1月15日の休日昼だった(移動祝祭日ではなかった時代)。アンコールの前にマゼールが4か国語で「新年おめでとう」といって、最後は日本語だった。この国が西洋で重要とみなされているのに気付いた最初のできごとになる。
2.そのあとは毎年放送されて、しかも生中継になる。でも、演奏の質はよくない。というのも、ヨーゼフ・クリップス(ウィーン生まれでウィーン育ち)とウィーン・フィルのシュトラウス集(1956-7年録音)を聞いて、ほとほと感心してしまったから。なるほど、ウィーン子たちの粋と数奇はこういう洒脱なものなのか。この演奏を聴いたら、1980年以降の演奏はとてもとても。せいぜいクライバーとカラヤンが聞けるくらい。
3.自分の幸福な思い出は、ヴィリー・ボスコフスキーが来日して、日本フィルを指揮したウィーン・ワルツのコンサートを聴けたこと(1985、1986年の二回)。演奏はまあおいておくしかないが、この老人の雰囲気が実によかった。着古した(と見える)背広でにこにこしながら嬉しそうに指揮した。数曲ヴァイオリンを演奏していたな(ヨハン・シュトラウスのスタイルを継承)。なるほどハプスブルク帝国とウィーン世紀末は、この人に最後の輝きを残したのだったなと思い至った。言わずもがなだが、ヴィリー・ボスコフスキーは1960-70年代のニューイヤーコンサートの指揮を一手に引き受けていた、もとウィーン・フィルのコンサートマスター。
www.youtube.com
4.ヨハン・シュトラウス(息子)は、パリで人気の出たオッフェンバックのオペレッタが輸入されたのに触発されて(ライバル心を刺激されて)、オペレッタを書き出す。シュトラウスのは市民やエリートの欲望を満たすものなので、オッフェンバックの風刺や皮肉を捨てて、優美で上品なものになった。自分の好みでは、エレガントなシュトラウスではなく粗野なオッフェンバックを取る。
(著者の「こうもり」分析によると、フランス・ハンガリー・ロシアの人物が登場する中、フォルク博士がアイゼンシュタインにいたずらをするというのは、フォルク(民族)=オーストリアがアイゼンシュタイン(鉄の意、そこからビスマルク)=プロシャに対する優位を示しているという。手の込んだナショナリズムが隠されているわけだ。保守的、現状肯定的であるけど、メタファーを込めた作品を書いたといえる。とはいえ、当時の検閲制度のために台本はできの悪いものしか使えず、そのような視点を持てる作品はほかにはないみたい。)