2023/05/25 トーマス・マン「ブッデンブローク家の人々」(筑摩書房)第1部・第2部 ドイツ19世紀半ば、成り上がり企業の三代目が後を継ぐ 1901年の続き
ここから話が動き出す。19世紀の半ば、ブッデンブローグ家の第三世代が資本主義とグローバル化の進行で社会が変わっていくのを経験する。この時代はドイツの資本主義勃興期なので、好況と不況が定期的に交代する経済状況になる。小規模資本はこの景気の波に巻き込まれ、好景気と苦境に対処しなければならない。
第3部 ・・・ ここの主人公は18歳になったアントーニエ(トーニ)。不評判ではあるが、美貌のトーニに32歳のベンディクス・グリューンリヒが求婚する。自分で商会を経営しているやりてだ。でも俗物で女性を自分の飾りにすることしか考えていない。新興ブルジョアの自分に拍をつけるために老舗の令嬢を妻にしようというのだ。トーニはそこまでは考えていないが、一回り年上の男には嫌悪しか感じない。拒絶すると、父は夏中トラーヴェミュンデにある海沿いにある寒村に行けと命じる。そこには粗野だかやさしい老夫婦がいた。トーニはそれより若い息子モルティンに惹かれる。医者になる勉強をしている自然児。実は学生組合員で社会主義(もしくは自由主義)者、なにより貴族を嫌悪し民衆による政治を望んでいる。最初は話が合わなかったが、次第に惹かれあう。もうすぐトーニは家に帰るというころ、もじもじするモルティンにトーニは「一番好き」といい、キスをする。しかし業をにやしたグリューンリヒは父ヨハンの前で自殺すると脅し、モルティン家に乗り込んで手をひけと念を押す。モルティンは大学に戻され、トーニは家に戻り、グリューンリヒとの結婚を承諾する。式は1846年にリューベックの町中を巻き込んで盛大に行われた。一方、アムステルダムの商会に勤めることになったトーマスは花屋の娘ハンナに別れ話をすることになる。
(なんというメロドラマ! 1960-70年代の少女漫画や青春ドラマにありがちな恋愛ではないか。それが1901年には形式ができていた。背景で考えねばならないことは、当時は男性優位社会であり、上流階級では自由恋愛ができない状況だ。ことに都市部では梅毒が蔓延していたので婚前に男女が交際することはありえなかった。おかげで禁欲を強いられた男性が娼館に行き、梅毒に感染したりした。なので、トーニとモルティンの恋愛は当時のドイツでは極めて珍しいことで、ほとんどファンタジーなのだ。ケラー「村のロメオとジュリエット」がそうであるように。それに既婚女性は家の外で活躍することはできない。ブルジョアと結婚することは家の中にこもり、社会で活躍できなくなることを意味する。持て余した情熱は夫に隠れて不倫するか(モーパッサン「女の一生」トルストイ「アンナ・カレーニナ」)か、自宅をサロンに開放して芸術のパトロンになるか、慈善団体などに所属して社会活動を行うか、夫の事業を横からサポートする実質的な経営者になるか、あまり選択肢がない。トーニはモルティンとの恋愛経験を持つので、いずれ再燃しかねない。女性は飾り物にされるので、不満と不安定がいつもあるのだった。またモルティンが社会参加の意欲をもつ開かれた男性であることに注目。こういう男は中流から上流の階級にたくさんでてきて、長じては社会主義運動や労働運動に参加するものだった。トーニがモルティンに惹かれたのはグリューンリヒの俗物を批判するような観念的な行動派であるからだろう。こういう恋愛も社会主義運動で多く見られ、たいていブルジョアの令嬢は資金源としてよく使われた。あるいは運動の家政婦や男性の介助をすることを期待された。そういうミソジニーやマチズムがある社会での恋愛だった。)
第4部 ・・・ 引き続きアントーニエ(トーニ)のこと。1846年に結婚し、同年に娘エリカを出産した。家から出られない生活なので、衣装や家具や子育てに金を使おうとするが、最近のベンディクスはとてもしぶい。家にいつかないし、冷笑の銀行家がしきりに訪問してくる。どうやら借金の返済が滞り、強硬に回収したいらしい。ベンディクスと銀行家はトーニの父ヨハンを頼るが、財務諸表を見たヨハンはすでに立て直しは手遅れであり、しかもトーニに与えた持参金も抵当に入っていることを知る。トーニの愛情を確認して支援するかどうかを決めることにしたが、ベンディクスの現状を知ったトーニは「愛したことなどない」と初めて本心をあかす。支援を断ったヨハンにベンディクスは「トーニとは金のために結婚した、愛したことはない」と叫ぶ。崩れるベンディクスを置いて、ヨハンはトーニとエリカを家に連れ帰った。
ときに1850年。トーマスはアムステルダムから帰り家業を引き継ぐ。クリスティアンは南米を放浪しチリで仕事を見つける。義兄ゴットホルトは偏屈であり、その娘たちも結婚できていない。ヨハンの妻エリザーベトの兄ユストウスは遺産を相続するとさっさと廃業隠居し、その息子たちも不品行で評判がよくない。そして1855年に老いたヨハン(2代目)は発作を起こして死去した。
成功した事業化の三代目になると、金持ちの生活に慣れて事業への意欲がなくなり、芸術に入れ込んだり、放蕩にふけったりするものだ。第4部を読みながら、ヴァン・ダイン「グリーン家殺人事件」やクイーン「Yの悲劇」を思いだしたよ。あるいはヴィトゲンシュタイン家三代目のルートヴィヒやパウルなどを。ヨハン(2代目)の人生訓は「働け祈れそして節約せよ」だった。これを息子や娘は引き継がなかった。家にたいする反発であるようにみえるし、このプロテスタント倫理に由来する宗教的情熱を失ったともみえる。
以下はウィーンの話なので、北ドイツの町リューベックに当てはめるのは乱暴かもしれないが、ドイツ圏内の1848年革命以後の状況を知る参考になる。
2017/04/4 小宮正安「ヨハン・シュトラウス」(中公新書) 2000年
途中に1848年革命が描写される。キャラは上流階級たちなので、決起した市民や労働者目線ではない。なので路上の蜂起の様子はかかれず、市会議員の視点で描写される。市会議員たちが議会に集まってうだうだと雑談しているところが包囲され投石される。市民や労働者が襲撃しても議員たちは事態収拾の力をもたず、自分の権威を使って家に帰るまでの安全を保障されるまでを確約させる。ブルジョア議会に蜂起したひとたちが期待しなかった理由がよくわかる。あるいは「革命」を上流階級視点でしかみないトーマス・マンの偏狭さも見える(市会議員らに叱責されると、市民や労働者が卑屈になるという描写もある)。
この家がすでに3代目で陰りが見える理由は、家を取り仕切る女の影が薄いこと。「女族長」と訳されるほうが多い「メイトリアーク」、すなわち母系社会におけるリーダーかつ象徴的存在がいないのだ。ヨハン(初代、2代目とも)の妻は影が薄く、夫のいいなりになっていて、息子や娘への影響力をもたない。家という場所に求心させる強い母性がまったくかけているのだね。そういう女系や母性を重視しないのは、プロテスタンティズムの影響のせいかしら。女たちを家に閉じこもらせ、責任ある仕事をさせなかったので、権力をもつ男がいなくなると、集団がくずれてしまう。女は家産をもっているわけではないので、夫や息子に口出しできない。ここまでを読んでも、男性優位社会の危うさがよくわかる。南米のガルシア=マルケス「百年の孤独」のウルスラやアジェンデ「聖霊たちの家」のクラーラのような存在があれば、ブッデンブローク家ももう少しは長く持ちこたえただろうに。
(これは早すぎる判断かもしれない。蓮っ葉でうわついたトーニが大化けするかもしれない。なにしろ第4部でまだ20代前半だ。)
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2023/05/23 トーマス・マン「ブッデンブローク家の人々」(筑摩書房)第5部第6部 三代目トーマスはシトワヤンに加わって「ひとかどの男」になりたい 1901年に続く