odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

バルドゥイン・グロルラー「探偵ダゴベルトの功績と冒険」(創元推理文庫) WW1前のオーストリア=ハンガリー二重帝国を舞台にする短編探偵小説集。

 工場所有者のグルムバッハ氏とその妻ヴィオレット(元女優)の家に招待されるのは、ダゴベルト氏。ソクラテスに似た風貌で、音楽と犯罪捜査の道楽者。ヴィオレットの誘いに乗って、晩餐のあとに犯罪捜査を物語る。時代は19世紀末ウィーン。マーラーリヒャルト・シュトラウスクリムトエゴン・シーレ、シュニッツラーとハウプトマンオットー・ワーグナー


上等の葉巻 ・・・ グルムバッハ氏の嘆くには、葉巻がときどきまとめて無くなる。執事や女中に心当たりはいない。ダゴベルトは書斎のソファに残された毛、本棚の上に残された灰から、「事件」の全貌を見つけ出してしまう。ダゴベルトのホームズと異なるのは「真相」究明のみならず、事件の関係者の権利を守るところね。これから起こる事件を回避する手際が見事。

大粒のルビー ・・・ 若い男爵が女優とのパーティの後、ルビーの指輪を返せと言ってきた。コートのポケットになるほど入っている。返したら偽物なので、購入代金を弁償しろと言ってきた。これは詐欺だが、スキャンダルにしてはならない。ダゴベルトは女優、弁護士、宝石商を集めて、推理を披露。真相解明までの会話がとてもうまい。それにスキャンダルにしないという手際もみごと。

恐ろしい手紙 ・・・ ある貴族婦人が結婚詐欺師にひっかかり、冗談の手紙を盗まれる。あまりにあいまいな手紙は恋文に読め、それが暴露されると婦人の地位はなくなる。詐欺師は上流階級の秘書になりたいというので、ダゴベルトが雇い入れた。詐欺師の性格を調べるため。そしておおがかりなコン・ゲームをしかける。おお、「ボヘミアの醜聞」より読みでがあるぞ。

特別な事件 ・・・ ウィーンの公園で富裕層の医学生が後頭部を殴られて死んでいた。ダゴベルトは警察の無視したニット帽(の汚れ)と女性用柄付き眼鏡に注目。半年かけて事件の謎を解き、関係者の苦悩を解決する。まあ犯罪の社会的処罰より富裕層や貴族の体面が優先されるのは世紀末ウィーンの政治状況がそうだからというしかない。その点は探偵小説ではないな。チェスタトン「神の鉄槌」に茶々を入れるような言葉があった(解説によるとこちらがあと)。「サンテュール・ア・ルーブル」は最近のプロレス用語では「パワーボム」か「リバース・ツームストーン・パイルドライバー」のようなレスリングの技。

ダゴベルト休暇中の仕事 ・・・ 老いた母が息子の行く末を心配して、自分の父が誰か知りたいという。1910年代の60年前のできごとで、1849年の動乱に原因があるらしい。一種の貴種流離譚が浮かび上がるが、過去の因縁は物語ることはない。ここでも系譜を暴露することはせず、新規事業への投資で話をまとめる。波風を立てないように処理するのが、世紀末の富裕層の願望の現れ。

ある逮捕 ・・・ ある貴族のパーティでダゴベルトが「逮捕」されて笑い物になったとグルムバッハ氏がいう。いや実は裏があるのだよ、とダゴベルト。銀のシガレットが盗まれるのを目撃したダゴベルトは窃盗犯が手配中の殺人犯であると知る。彼を逮捕し、しかし貴族には迷惑をかけないようにするためにダゴベルトはコン・ゲームをしかける。肝は指紋の入手法。この時代1900年前後には、グロスの犯罪の分類と形式化という科学化がある一方。ロンブローゾの骨相学のようなニセ科学もあった。

公使夫人の首飾り ・・・ X国公使の家で高価な首飾りが盗まれた。屋敷には医学生がひとり部屋にいた。当然、学生は逮捕されたが、彼はがんとして説明しない。身に碧玉を付けているわけすらも。ダゴベルトは治外法権の場所で、公使夫人と世間話をして解決する。意外な隠し場所(本文にあるように組織捜査をすればすぐに見つかるのだが)。

首相邸のレセプション ・・・ 公爵夫人がレセプションを主催すると、窃盗が起きる。富裕層のみやびやかな人たちの集まりなので、大事にしたくない。そこでダゴベルトに見張りを依頼した。チェスタトン「見えない人間」「通路の人影」のような「トリック」。

ダゴベルトの不本意な旅 ・・・ ダゴベルトの長い休暇。屋台のイギリス女性に一目ぼれしたのに、なびいてくれない(なんという自信!)。身辺調査をすると、結婚していて、一方窃盗犯との付き合いもあるらしい。夫の情けない状態に憐憫を感じたダゴベルトは、国際手配されている窃盗犯の逮捕を計画する。まあ、いろいろあってダゴベルトはドナウ河をすいぶん下流まで下ることになってしまった。


 作者はハンガリー生まれで19世紀末のウィーンで文筆をふるった人。オーストリア=ハンガリー二重帝国の時代だったので、このような行き来は容易だった。人の流動性が高まることが、文化の多様性を深める。たぶんこの短編に書かれたような世紀末ウィーンの退廃と倦怠は同地生まれだと見えにくかったかも(ホフマンスタールの「薔薇の騎士」はウィーンの繁栄が終わった後に書かれたか。ノスタルジーの感覚がないと、世紀末は肉感できないのだろうか)。このあたりの事情は解説に詳しいので、参照されたい(ほかにも同時代のホームズとの比較、データベースを用いた探偵法など内容が充実している)。
参考エントリー
小宮正安「ヨハン・シュトラウス」(中公新書)
 事件の大半は窃盗。殺人はほとんどない(グロルラー「奇妙な跡」1907@江戸川乱歩「世界短編傑作集2」創元推理文庫はめずらしい殺人もの)。それでも窃盗が重大になるのは、帝国の支配者層や富裕層にとっては名誉や評判がとてつもなく重大だから。スキャンダルが起こることが、その階層に居られなくなり、身の破滅となるため。警察組織があっても、そこに話が流れること自身が問題になる。なので、ダゴベルトのようなディレッタントで、中世騎士の生まれ変わりのようなちょっと変わった人(かつ独身)が必要になる。ダゴベルト自身が上流階級で富裕層のひとりだから、彼らの中を自由に動くことができる。たぶんブラウン神父@チェスタトンはこの階層に入ることはできなかっただろう。神父のような市井の人がはいれるほど、ウィーンは市民化されているわけではないから。なので、ダゴベルトはポジショントークが必須。法の貫徹は彼の目的にはならない。階層の秩序の乱れを最小限に抑え、波風を立てないことが最優先。したがって解決は「なかったことにすること」にする。もみけしと弥縫。それが美徳とされた時代だからこそ、ありうることができた探偵。
 解説にもあるように、このような社会は1914年サラエボで発射された一発の銃弾で破壊された。作者は大戦中になくなったので、ダゴベルトの生きられない社会を見ないですんだ。さらに、厳しいのは第一次大戦後のハンガリーの混乱。共産主義者の政権、そのあとの軍事政権はハンガリー国内でジェノサイドを起こした。数千人がなくなったという(ポール・ホフマン「放浪の天才数学者エルデシュ」草思社文庫)。ハンガリーからは多数の亡命者がでた( ベラ・バラージュ「視覚的人間」(岩波文庫)など)。栗本慎一郎ブダペスト物語」(晶文社)が戦間期ハンガリーを取り上げていたと思うが未読。東欧亡命ユダヤ人にちては 山口昌男「本の神話学」(中公文庫)を参照。