odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

山口昌男「本の神話学」(中公文庫) 知を狭い領域の閉鎖された学問の中で捉えるのではなく、他の学問分野とかある観念でもって集結すると、新しいことが見えてくるんじゃね。

 1970年代前半の論文が収録。哲学・思想系の「オカタイ」雑誌に掲載されたものだと思うけど、高校の世界史と倫理社会(今はなんて学科名だい?)の知識を持っていればだいたい理解できる。面白いのは、いくつかのキーワードを元にそこにリンクするほかの本・著者・知識が次々と披露されること。これだけのひろがりを提供できる人はそんなに居ないのでとても貴重。最初のふたつの論文の関心領域は生松敬三「二十世紀思想渉猟」(岩波現代文庫)に重なるけど、とりあげる範囲はこちらのほうが広いかな。まあ、論文の目的が違うので比べるのは不当かも。

二十世紀後半の知的起源 ・・・ 知を狭い領域の閉鎖された学問の中で捉えるのではなく、他の学問分野とかある観念でもって集結すると、新しいことが見えてくるんじゃね、という主張。書かれた年の前には、全共闘の「専門バカ」批判があったからなあ。その例として1920年ハンブルグにあったワールブルク研究所をあげる。美術評論家の集めた蔵書を収めた私設研究所だが、ユニークなのはその蔵書の配列。哲学を占星術民俗学の間におき、美術を文学と歴史学の間に置くなど。その結果、カッシーラーとかパノフスキーのようなさまざまな領域の知を集める博学な研究者がでた。ああ、そういえば1980年前後には「学際」などという官製用語がさかんに使われたけど、上から降りてくる仕方の学問の方法は役に立たないのだなあ、と懐かしい思いになった。

ユダヤ人の知的情熱 ・・・ 20世紀前半の知において東欧ユダヤ人の貢献は非常に大きい。それは周知のことであるが、一方で、彼らはポグロムを経験する。すなわちロシア革命ナチス政権、東欧社会主義国の設立からの逃亡することによって。それは国家の庇護ないし馴れ合いから離脱され、異郷で仕事と友人と家族を奪われて生きること。これはこの国の人にはおよそ想像のつかない体験である。だがユダヤ人の思考は3000年前からのポグロムでもって、現実や国家が確実なものではないことを前提にした社会や思想を作ってきた。その反映は、たとえば共産主義新ウィーン学派の12音音楽などに見ることができるかもしれない。あと、ユダヤ人の迫害はナチスだけでなく1930年代ソ連でも起きたこと(ここでは言語学のフォルマリスト、演劇のメイエルホリド、映画のエイゼンシュタインを例に挙げている)。ここは当時にはあまり強調されていなかった。

モーツァルトと「第三世界」 ・・・ ベートーヴェン的くそまじめ主義(たぶん諸井三郎丸山真男だな、いくぶんかは吉田秀和も)が横溢するなか、1972年のモーツァルト生誕200年記念でたくさんの本が出た。われわれにあるのは小林秀雄の文学的モーツァルトか上記くそまじめ主義の天才・野生児モーツァルトくらいしかない。でも、ここで遊戯的・演劇的モーツァルトを見出すようにしよう。キーワードはコンメディア・デ・ラルテ。それに着目した今世紀の芸術家としてホフマンスタールブゾーニを紹介(当時はいずれも忘却されていた)。演奏ではクレンペラーの演劇的表現がすばらしい、とのこと。でもって、モーツァルトのオペラが中世-近代の即興演劇のみならず、第三世界の神話にも共通するところがあることを強調。すなわち、劇が宇宙を作り出すこと、祝祭的空間を演出すること、ストックキャラクターの即興が重要、聴衆は現実と劇の違いを明確に意識していることと、ときには演劇に参加することもあること、など。

「社会科学」としての芸能 ・・・ かつて道や広場は劇場でもあった。そこでは放浪の芸能民が即興劇を行い、共同体の成員は祝祭のたびに集まって踊りと歌と無礼講を行ったのだった。そのような視点でみると、チャップリンにバスター・キートン(いずれも放浪の芸人一家の生まれ)と、シェイクスピアと、この国の中世の技芸人が同じ土俵に並べられる。これもまた新鮮なものの見方。なお、この後ろ側には当時のこの国の公権力が広場や通路の使い方を規制し、一方で「歩行者天国」などを上から作ったことへの批判が含まれる。その対照の事例が、全共闘の「解放区」や「市民講座」などにあるわけ。

もう一つのルネサンス ・・・ ルネサンスというと教科書的には発見と創造の時代とされるけど、もうひとつ収集と古書の読み直しでもあった。その系譜で見るときに重要なのは、アラビア語で書かれたギリシャ・ローマの文献の翻訳であり、プラトンを発見し、ヘルメス学に代表されるカバラの秘教的な知の体系への偏執。大事なものは隠されるというカバラの知はゲーテフロイトボルヘスという後継者をもつことになった。でもって、書物の収集とその連関からの知の創出というテーマで最初のワールブルグが再登場。ブルックナー交響曲のような第1楽章第1主題が終楽章フィナーレで高らかに再現するような連関でもって興奮できた。ああ、おもしろかった。
 19世紀の民族学者の2つの類型を述べる。ひとつは書斎で文献と事物を収集して本を書くタイプ。フレイザーやバッハオーウェンなどがそのタイプ。もうひとつが世界中を旅して、民族と会い事物を収集する人。このタイプは本を書かないか、上記の人の連名で本を出す(すべてというわけではない)。あれ、この分類というのはのちに荒俣宏博物学者について説明したことと同じではないか。こういう「知」を支える仕組みが西洋の強みだったのかな。
荒俣宏「大博物学時代」(工作舎) 1982年
荒俣宏「図鑑の博物誌」(工作舎) 1984
 あと、西洋科学がカバラや新プラトン主義の影響を受けていて、世界の秘儀を開示するための手段として培われてきた、ということを指摘している。たしかにルネサンス時代の錬金術博物学がそれらの影響下で多くの人が取り組んでいて、そこには世界の隠された秘密を見つけることが目標であった(と同時に、それらの秘密は理性によって把握できるという認識も成長していった)。これらは過去の歴史を解釈するには妥当。とはいえ、現在のニセ科学の問題を考えるときには慎重にならないと。ニセ科学が科学の領域を侵食し、多数の人の利益を損なうものであるときに、この種の問題設定は彼らの都合にあわせて変形されて、彼らの主張を応援することになってしまいそう。となれば、カバラの影響云々を強調したい人は、ニセ科学カバラなどの秘儀・秘教を真面目に扱っていないということもあわせて主張しないといけないだろう。

補遺 物語作者たち ・・・ 20世紀のユダヤ人作家について。


 作者のかくれた主張は、この国の人文学の専門家は海外の新しい本を紹介し、翻訳すればことたれりとしている点。明治の頃から大量の本が翻訳されたが読み飛ばされ、忘れられて、この国の考えをちっとも深めたり広げたりしていない。その結果、海外の最新事情を紹介する短文ですら、知的な刺激をもたらさない。みんなダメだねえ、という具合。読み飛ばされ忘れられているというのはその通りで、この論文に紹介された翻訳書もすでに入手難になっている(まあ40年も経ったからねえ)。あわせて著者による本もその中に含まれてしまったかな。この文庫ももう現役ではなくなっているし。
 まあ、われわれは知の場面においては混沌とかめちゃくちゃとかバカ騒ぎとかを嫌うものであって、そこにどうにか秩序をもたらすことによって安心する。顕著なのは新しい本を読んだときに、その可能性をみるとか他の事象にリンクを張るのではなく、点数をつけて序列化(ランキング)して悦にいるか、無内容な世辞で神棚に上げるか。ほとんどすべての書評や読書のblogで見るのはそういう光景。そうすることで評者は安心し、混沌やアナーキーをもたらすものを排除し続ける。で、著者はそういう硬直化し、無難な秩序化をする精神に渇をいれる。リンクを張ること、できるだけ遠くの分野に旅をすること。その旅行報告がこれなわけ。18-19世紀の博物学書をかいまみれば、とにかく新しい事物の紹介に忙しく、熱中し浮かれているさまをみることができるのだが、そういうのと同じだ(ここでは秩序化する意思とか精神とかは、はるか後方においてけぼり)。
 とはいえ、この新規なリンクも張られて40年がたつとなると、もう古臭いかな、と思える。著者の張ったリンクを利用した言説がたくさんあり、自分自身も影響され、もう新奇性がないと思い込んでいるから。そういう点では、あと50年ほど封印してから読み返したほうが面白いかな。

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