二人の書淫(解説者の言)が図書館中の本を読み漁って、「物語の精髄」を精選した92個。その作者にはチェスタトン、モーム、スティーブンソン、モーム、ヴァレリー、Oヘンリー、カフカというなじみの名前もある一方、知らない中国やイスラムの物語作家の名前もある。長くて4ページ、最短は1行という断片ばかり。もしかしたら、失われた巨大な物語の断片を読んでいるのではないか、という空想に読者はふけることができる。そんな巨大な物語は、ホメーロスかシェヘラザードでもなければかけないだろうけど。
編集者の趣味がやはりどこかにでるもので、彼らの好んだ物語を強引に種別すると、1)夢から覚めた夢を見た、という夢から覚めた、という夢から・・・ という夢と現実の迷宮、2)逆説(パラドックス)、3)マチズモ(というか男の頑迷な意地か)、4)反=近代、あたりかな。そのためかどうか、近代の小説のような最後に落ちが付く、というかなにかの説明で謎が解明する、というような種類の物語がひどく少ない。時には、何が起きているのかわからない宙ぶらりんな事態を読者に残す。たとえば
「大洪水の時期になると、彼らは動物たちが溺れないようにノアの箱舟を注文した(クレメンテ・ソサ『ビリャ・コンスティトゥシオン=カンバナ間家畜運搬に関する報告』(カンパナ、1913)(P150)」
というもっとも短い物語を読むとき、「彼ら」とはいったいだれかに小一時間悩むことになる、いや小一時間でも解決しないのだが。「動物たちが溺れないように」の意図するのはなにか、でも同様。
1940-60年の当時、コピー、複写機、ゼロックスなどという機械はないから、かれらは筆写したのだろう。その根気、粘り強さなどにも感嘆。換気の悪い埃っぽい部屋にこもって、物書きをしていたら目を悪くするよなあ。大バッハも勤勉のために失明してしまった。
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さて、この本には92の断片がある。今回もまた最初のページから最後のページに向けて文字をスキャンすることになった。この物語群の配列には編者たちの意図があるのだろう。でも、その配列を無視した順で読んでも見たいと思う。そのとき、最初にいったこの本のすべての断章を含む巨大な物語は、また別のものになるだろう。
で、本という形式はこれを試みるにはどうも不向き。ページを自由に行き来し、同じ物語を繰り返さずに読むのは至難の業。となると、これは本ではない形式で読みたいものだ。ファイルを開くごとに92の物語がシャッフルされるとか(読むたびにストーリーの変わる本!)、何かのキーワードで検索して別のワードでソートをかけるというような。そのような機能のついた「ブック」を妄想する。
あいにく、それはまだなさそう。その点ではwebやblogの機能もまだまだ不足している。この「読書ノート」を読むとき、公開日は読了日とはまったくリンクしていなくてせいぜい新着かどうかを判別するくらいの意味しかない。公開順を無視して、自由なシャッフルやソートの機能を駆使して読んでもらいたいとも願う。blog内リンクを繁用しているのは、本と本に関連を結ぶための工夫。でもブログ主の意図によるリンクとは別の発想や連関でエントリーをつなげてもらいたい。あるいは完全にアットランダムな並びで読まれることも夢想する。それくらいに作者の編集から離れてもいいのではないか、とボルヘスやカルヴィーノを読むたびに妄想する。