odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

筒井康隆「朝のガスパール」(新潮文庫)

 複数のレベルの話が交互に進行する。それを抜き出すと、
「1.現実の筒井康隆と読者たち物語世界外の存在
 2.この小説を書いている第二の自己としての筒井康隆
 3.筒井康隆の第三の自己である榛沢たちがいる世界
 4.榛沢が書く貴野原たちの世界
 5.貴野原がやっているゲーム「まぼろしの遊撃隊」の世界 (P329)」
となる。自分の趣味では順番を逆にしたいのだが(そうするとオールディス「世界Aの報告書」と階層と同じであることが明確になるので)、作家がこのように説明しているからしかたがない。
 と書き上げたところで、構造解析は終了。なにしろ、複数の階層がどのような意味を持っているか、それがどのように次第に解体していくかは、「3.筒井康隆の第三の自己である榛沢たちがいる世界」で榛沢が懇切丁寧に説明しているから。そのほかのことについてもほとんど語ることがないのは、榛沢が「論評」という形式を使って、小説の意図から書き方までを説明しつくしているため。これほど読者サービスの良い小説はめったになく、楽しみながら最新の小説理論を学べるというのは僥倖に他ならない。まあ、4度目の論評では、穏やかな言葉ではあるが作品の意図を理解しないで恫喝する読者(「新聞の購読は止めます」など)を罵倒しているので、さあ享楽的読者は作者の姿勢についていけるかな。

 あとは作家のエンターテインメントを楽しむに尽きる。ことにヒロインのひとりが貞操を失いそうになると、説教をする投稿が入ってくるところ。これはかつて石坂洋次郎 「丘は花ざかり」の新聞連載中にあったこと(臼井吉見「小説の味わい方」新潮文庫)。たぶん作家の念頭にあったはず。八方を丸く収めるために作家のとったたったひとつの冴えたやり方は・・・。あるいはバブル時代の成金が金に飽かせたパーティシーンを書くと、読者の(愚かな)一部がけちょんけちょんにけなす。怒り心頭に発しながらも、作者はその声にもこたえなければならず、作家のとったたったひとつの冴えたやり方は・・・。そんな細部にこだわってもいいけど、別の方向から重箱の隅をつつくようなことを箇条書きで。

・小説の中には階層があって、上位の階層が下位の階層をコントロールしているわけであるが(それが小説を書くということになる)、5の最下層において1の「物語世界外の存在」によって書かれたテキストが5の階層の登場人物によって批判的に読まれる。そうすると、最下層が最上位のさらに上位に立ってしまうことになる。上位が下位をコントロールするという階層のヒエラルキークラインの壺のようにねじれてしまうわけだ。なにしろ、2の作家の書き方は1の読者の要望に基づいてストーリーを改変していくと宣言し、そのように書いている。となると、この小説全体をコントロールしているのはいったい誰?ということになる。こんな奇妙な仕掛けを持った小説が「ある」というだけで大事件。

・1と2のレベルの壁を破るツールはこれまでは封書のみであったが、このとき(1991年10月)にはできたばかりの電子会議室も使われた(別に本になっている)。そこでは今日のネットの「荒し」とも呼ばれる存在もいた。作家のすごいのはそういう連中を小説に実名で登場させたこと。そのことによって「泉卓也」「岡安誠史」「清水伴雄」「井上宏之」らが虚構の登場人物になった。彼らはこの本がある限り、ずっと罵倒と軽蔑の対象になり続ける。はからずも彼らの物理現実における生命よりも長い命を得たわけだ。そのことを、小説発表後四半世紀たってこれらの登場人物のシャドウである彼らはどう思っているか。

・という具合に、小説と作者と読者の境をなくしてしまったわけだが、さらには他の小説にも開かれている。5の「まぼろしの遊撃隊」の戦闘が行われている惑星は別の小説の舞台であるし、4のゲーム開発者は別の小説の主人公であるし、という具合。そのうえ3において「パーティ」を描いた別の小説が言及される(これは著者名をあげておきたくなった。トルストイとゾラ)。読者は作者同様にこれらの他の本に向かって好奇心を広げるのであって、続けてそれらをこの小説の続きとして読むことになるだろう。そのとき本と本の間の垣根というか境がとっぱらわれて、巨大な作品の一部を読者は読んでいることになる。

・「朝のガスパール」とは何か。ベルトランの詩集「夜のガスパールラヴェルの同タイトルのピアノ独奏曲が美しい)」の引用であるだろうし、作中で2回言及されているように、男性の朝の勃起の謂いであるだろうし、毎朝車に積み込まれたり人が担いだりして配達されるなにものかあるいはその運動そのものであるだろう。まあ、おれとしては「とは何か」と問うことにも、それにこたえることにも興味はなく、別のなにかを指し示しているなどと思う必要はなく、「朝のガスパール」はこの小説それ自身であればよい。