odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

ブライアン・オールディス「世界Aの報告書」(サンリオSF文庫) 誰かがだれかを監視している多層構造。のぞきと引用は読書することの比喩。

 イギリスとおぼしき国の郊外に館がある。マリイ氏とその妻が住んでいるらしい。その周囲にはバンガロー、煉瓦の納屋、馬車格納庫などがあり、G(元庭師)、S(元秘書)、C(元運転手)がこもっている。彼らの目的はマリイ氏を監視すること。望遠鏡や双眼鏡を使って館を見張っている。ときどき、こもっているところから出てG・F・ワットという店主の経営するカフェに行く。そこで、互いにすれ違う会話をして、戻ると監視を再開する。監視の報告は細密な描写で、技術書のように味気ない無機質な文体。マリイ氏の生活は凡庸なもので、事件は起こるわけでもなく、誰かが闖入することもない。イギリスと思しき田舎のインテリらしい人の生活が淡々と描かれる。監視はときにずれて、館やこもっているところにある絵画の描写になる。その絵画も郊外の生活に似たりよったりで、なにを描写しているのかわからないことがある。これをレベル1としようか。作中では「蓋然世界A(Probability A)」と呼ばれる。
https://twitter.com/fifi_ma_fifi/status/1309721964861292545 から
 レベル2では、蓋然世界Aの報告を熱心に読む人々がいる。ドモラドサとかミドラケメラという名前をもっている。彼らは蓋然世界Aを調査することによって、自分らのいる世界(確立世界X)の危機が救われると考えているらしい。そして、この隔絶されたとおぼしき蓋然世界Aと確立世界Xは時空連続体であるという仮説を持っている。蓋然世界はAからZまであるらしく、その中でAが選ばれたのは、世界Xに似通っているかららしい。
 レベル3では、確立世界Xを監視する人々がいる。彼らはスクリーンを通して世界Xの人々が世界Aを観察しているのをみている。そこにいる人々は識別者、思考者と呼び合っていて、固有名を持たないらしい。
 レベル4では、ニューヨークにいる人々が識別者や思考者たちを観察している。チャロック、コーレス、カドリアなどの固有名を持っている。彼らの周りをロボット蠅が飛び交う。
 レベル5ではニューヨークの人々を見る父と二人の少年がいる。ピクニックの最中に彼らは、スクリーンの中のチャロックたちを見る。そして、レベル5ですら、別の世界の人々に監視され、その監視の階層は無限に続くとされている。

 記述の大半はレベル1。細密な描写で、技術書のように味気ない無機質な文体を延々と読まされる。集中していないと、文章を追いかけるのが苦痛になる。読書の密度を濃くしないと、この小説は読了できない。さて、そのような過酷な読書の時間を過ぎて、読了したとき、読者は何を発見するか。
 著者ブライアン・オールディスを「地球の長い午後」で知っている読者にとっては、これをSFと読むだろう(「地球の長い午後」と同じ1962年初出)。なるほど、レベル2はよくあるメタリックでプラスティックな未来世界と言えないこともない。無限に続く「時空連続体」は、パラレルワールドものといえるし、それらしいガジェットも時にあらわれる。そうすると、人類を監視する異星人とか人類の意識の拡大とか時空のねじれによる混乱とか、そういうSFテーマで見ることも可能だろう。
 俺が個人的に思ったのは、これは読書することの比喩ではないかなということ。とりあえず自分をレベル5においてみると、父と少年がレベル4を覗くのは本を開いて活字を追うことだ。そのときレベル4はレベル5の存在を意識しない。そしてレベル4の物語が語られる中、レベル3が引用される。レベル3はさらにレベル2を引用し、その語りにはレベル1が引用される。こういう無限の引用が本と読書の中にあって、それはこの小説の監視の仕組みと同じになる。そのうえで、読者のレベルも別の書き手によって引用され、新たなレベルNの登場人物にされて、別の読者によって引用されることになる。引用するという行為と監視するという行為がほぼ同じであるという見方からの類推。
 もうひとつ、レベル1ではある人物が同じレベルにいるものたちに監視されているのだが、監視の中心にいるマリイ氏はこの小説では全く描写されない。CやSやGの記述でいるとされるが、実体や姿があると確信をもっていえるわけではない。まあ、さまざまなレベルの監視で最後にフォーカスされる存在が実は「ない」というわけ。それって人間の存在の根拠とか言語の起源などを問うことに似ているね。無や空虚に引用や監視を重ねて「ある」ことにする自己言及的な仕組みが、人間の認識とか理性を支えている、実は宙づりであることを隠している、とでもいえるかな。

 そういう自己言及的な仕掛けはもうひとつあって、レベルAではときに絵画の観察が行われるが、作者はウィリアム・ホルマン・ハントという19世紀のラファエル前派のイギリス画家。小説の最後の不可解な数行の文章は彼の代表作「雇われ羊飼い」を描写したもの。ハントは1904年にメリット勲位なるものを継ぐのだが、前任はジョージ・フレデリック・ワッツという。レベル1に登場するカフェの店主はG・H・ワットという。ここで読者の現実とレヴェル1のフィクションが地続きになり、監視されているのは読者の世界であるかもしれない可能性が暗示されている。ほらね、僕らもまた誰かの物語の一登場人物に過ぎないのかもしれないよ。


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訳者 別のかたによる解説