「日本殺人事件」1994年の評判が良かったので、作者に連絡をとってあと2作を翻訳して1997年に発表した、とされる。
巨人の国のガリヴァー ・・・ 私立探偵事務所を開くことになったトーキョー・サム。最初の依頼人はなんとスモウ・レスラーだった。カンノンシティにふたつのスモウ部屋がある。シンジ相撲のスクネ部屋とミセ相撲のライデン部屋。スクネ部屋のジシンリキが死霊(数日前の取り組みで事故死したレスラーのもの)を見た。小さなトランクほどのアケニの上に乗っていたという。サムが調査を始めると、3つのレスラーの死体が現れる。まず、サイドカーにのせられたもの。小柄な体格で頭だけでかいフクスケ(福の神なので多くの企業が雇っている)が載せたまま消えてしまった。ボン・ダンスの会場をめちゃくちゃにする追跡があって、部屋に戻ると、稽古用の土俵に別の死体が。死体発見の報を伝えると、土俵の死体は消え、トリイにかけられていた。体重150㎏はありそうな死体が動き回る。
この世界の奇妙なのは、まずシンジ相撲とミセ相撲。TVでやるのはサムライ相撲だそうで、一方シンジ相撲は宮廷や神社の神事の発展形。なので、取組も単に勝ち負けを決めるものではない。ミセ相撲はアングラや闇社会向けのエンターテインメント。ここらの設定は19世紀のアメリカのプロレスに近いかな。面白いのは、神話や伝承、祭祀など読者の物理現実にあることや言われていることでこれらを説明しているので、実際に存在していてもおかしくないアクチュアリティをもっている。この国の精神とか思想とかを反映しているかのような意匠をもっているのだ。これは相撲に限らず、企業が縁起結びの祭事を行ったり、フリークスを福の神として雇用していたりするという設定にも反映している。神とか仏とか霊とかが、西洋近代の二元論とも世界宗教とも違うしかたで「在る」とされるこの国の考え方の延長にある。なので、これらの「常識」を持っているものには解けない事件が、まったくそれには疎いガイジンの眼で見ることで解決される。誇張されてはいるものの、読者の物理現実に近しい「日本」を読者も発見することになるわけだ。
実在の船 ・・・ 3か月も仕事がなくて困っているサムは無門寺の禅に強く惹かれる。ある雲水に禅修行のアメリカ人の手記を預かったので、彼を助けてほしいと依頼される。『実在の船』というタイトルのその手記にはアメリカ人の禅修行、とくに師家(マスター)との公案のやり取りが書かれている。ついに師家は棺に座り、弓と矢を渡した。頓悟したいなら矢を放て、喜んで殺されようという。矢を放つ。棺には師家はいない。そして手記は途切れている。サムはさっそく無門寺にいくが、目の前で山門からアメリカ人修行僧が落下した。絶命のまえに「在るものは在らず、故に在るという」と言い残す。サムの師匠であるバショー翁がきて、禅と公案をとりあえず言葉で説明しようと言い出した。
禅は必ずしもニホンの精神そのものではない。歴史的には武士と貴族のそれぞれ一部が支持してきたもので、この国の精神とか思想にはあまり関係をもってはいない。でも、鈴木大拙ほかの英語文献によって、禅がニホンの、ないし東洋思想の代表であるかのように思われている。そこがこの短編の背景。なので、この国に生まれたものでも禅はほとんど知るところはないので、作家による図式的な説明はありがたい。特に注目するのは、公案は言葉遊びのようにも見える難解なものだが、1)思索の迷路から救う、2)虚無への没落を防ぐ、という効能を持っていて、西洋の「ロゴスの罪」、すなわちロゴスが独り歩きして怪物になることから脱する機能をもつとバショー翁がいうところ。なるほど、合理的・論理的に思考を進め、懐疑を徹底したときに、存在の無根拠性に恐怖を感じて、なぜか「民族」だの「神」だの不合理な・あいまいな観念に取りつかれるというのは西洋の思考によくあることだ。といって、なまはんかな禅を持ち出したところで、ちゃんとマスターについて修行しないかぎり、半可通の相対主義に陥ることになる。あるいはシニシズムに陥って他人を侮蔑し社会へのコミットを拒絶するようになる。そちらにも注意すること(サムが陥ったようにね)。
「在る」を禅のように考えていった先に「空」に出会えるかというのがこの短編の「事件」。通常の犯罪、社会や共同体からの逸脱とか反抗とかではない「事件」を探偵小説で扱うというのがこの短編の趣向。通常は哲学や思想書で起きる事件が、エンターテインメントにあるという「神秘」。そこにある「在る」の思考を楽しみましょう。なおこの事件はダブルミーニングにもなっていて、別の「空」が生まれる。それはロゴス(のうちの書かれた言葉)にしかない「在る」の無根拠性ないし懐疑を主題にしている。そこにおいて、登場人物と作家と読者の間の堅固な壁が破れて、それぞれがそれぞれの存在の無根拠性に向き合うことになる。とりわけ読者は「在る」への不安や懐疑から生じる思索の迷路や虚無への誘惑から脱することはできるのか。サムに対するバショー翁のような師家(マスター)は読者にはいない(作者はここに書きつけた言葉を送ることまでしかできないのだし)。
(そういえば、「実在の船」は懐疑のさきに、枠物語の設定を超越してしまったね。作中作『実在の船』を書いたアメリカ人も「The Japan Murder Case」を書いたSamuel Xもそれを翻訳した「山口雅也」も消えて、あるいはそれらが遍在するどこかにいって、ただテキストだけがあるという事態になっている。この趣向は笠井潔「天啓の宴」「天啓の器」、あるいは筒井康隆「虚人たち」「朝のガスパール」、竹本健治「ウロボロスの偽書」、辻真先「合本・青春殺人事件」などと共通しているのだが、この山口作のが最もうまく作者を隠しているのではないかと思う。)
ふ~ん、ガイジンの見た偏見のあるニホンを舞台にしているのね。それって1960年代に都筑道夫「三重露出」、筒井康隆「色眼鏡の狂詩曲」、1970年代にソムトウ・スチャリクトル「スターシップと俳句」でやられたことだよ。まあお手並み拝見。みたいな高飛車な態度で読んでいて、その期待を上回ってこなかったのだが、最後の「実在の船」でぶっ飛ばされました。この短編はまごうかたなく傑作。思い込みをもっていてすみませんでした。ただ、賞味するには前の4本を読むことが必要。それはちょっと楽しめなかったので、薦めにくいなあ。