1984年のたしか春に新潮社書下ろし長編でどんと出版された。丁寧であるが重く固い箱に入れられた本は、とても威圧的だったなあ。読者よ読めるか、と挑発するようで。
箱書きには著者のものと思われる400字ほどの文章が載っていて、テーマに即するだろう固有名詞が羅列されていた。読解の参考になると思うが、文庫版にはないし、ネットでも見つからない。「いってみようかGo」で終わるJazzテイストあふれるこの文章を読みたいのだがねえ。
第1部は「文房具」。
どことも知れぬ宇宙を大船団が航行していた。いつ始まったのか、何を目的にしているのか、長い航海のために乗組員は誰もわからなくなっていた。その大船団の中に「文具船」がある。日用雑貨や消耗品を混載した輸送船ではなく、通常の一戦艦ではあるが、乗組員はすべて文房具である。彼らは文具の体と人間に似た思考や感情をもって、任務を遂行していた。あるとき、「文具船」に惑星クオールの住民殲滅の指示が入る。しかし長年の航海で乗組員のほぼ全員の気が狂っていたために、指令書が破棄され、船長は失神して発話障害を起こす。操縦員は他の船にぶつけようとしてニアミスになり、船内では拷問死されたと思しき死体が見つかる。乗組員の意思は統一されておらず、推定24億人と思われるクオールの住民を数百人の乗組員と15万匹強のカマキリ部隊で殲滅することは可能であるのか。狂気の「人々」の困難が予想される。
というような大状況は直接には書かれない。かわりに30人ほどの乗組員の狂気が克明に記される。詳細を感想の本文に組み込むと読みづらいので、以下の画像を参照のこと。
1984年に出版されて読んだときには大いに戸惑った。すでに「虚人たち」でこの作家は、リアリティの範疇を乗り越えた実験を始めていたのだが、ここには「人間」がいない。文房具たちがそのままの姿で船に乗り込み、人間と同じ言葉で会話し、意識を持っている。書かれていることを具体的な映像に切り替えながら読もうとすると、この設定で困難になる。読者は使用価値しかもっていない具体が思考と会話することに感情移入しなければならない。なるほど、彼らを擬人化するやり方もある(アニメの「艦これ」みたいな)。そうすると感情移入はしやすいだろうが、ここではやはり文具そのものに感情移入できるように訓練するつもりのほうがよい。なにしろ戦闘用の艦隊に勤務するのはオスばかりだから。そのうえだれもが気が狂っていて、読者の期待するような「まとも」な反応は帰ってこないのだし。文房具たちの狂気には類似するものはひとつもなく、精神疾患の百科事典と思うくらいのバラエティに富んでいる。
それにしても、と思うのは、文具船に乗り込む文房具を一人一人説明しながら、上記のような大状況も組み込む。文房具一人に起きた事件は、のちに別の人物の説明の際には視点を変えて語られ、おそらく第3部「神話」での出来事の伏線にする。その錯綜具合は、書出しの文章をとりあえず書いて、物語がおのずから生じるのを待つという書き方では達成できない。おそらく執筆前に登場人物の一覧と性格付けとプロットの膨大なメモや鳥瞰図をつくったであろう。その知的な困難さといったら!(思い返せば、行動性向に関する博物学的収集癖は「俗物図鑑」「男たちの描いた絵」「家族八景」などですでに示されていたのであった)。
しかも文体にも工夫を凝らす。ほとんど句点(、)がなくて、改行もめったにない文章。そのうえ、無線機を使った会話では複数の声が誰の発話なのかわからずに並列されたりする。説明の文章がいつのまにか現在対象にしている「人物」の内話に切り替わったりもする。この錯綜した文章を読み込んで、切り分けていくのもしんどい。これらを含めて、読者に努力を要求する作品だ。
おおそうかそういうことだったか。文房具のような具体物に感情移入できるよう訓練すればそれは具体を持たなくとも愛を感じるようになるであろう。たとえばさまざまな観念を愛する人は古今東西におった。となると、行き着く果ては記号である文字そのものを愛することもできるであろう。とすると、この船団には「文具船」のほかに「文字船」があり、乗組員である文字は不条理な命令でどこかの惑星の掃討・殲滅作戦を行ったのかもしれない。そうして文字が戦死、戦病死するごとにシャドウであるわれわれの世界の文字が消えるのは当然ではないか。どこかの惑星で文字が死んだとき、小説の文字も消える。その記録が「残像に口紅を」。その第3部の痙攣的な文字の並びは、最後まで生き残った文字の断末魔なのである。「みんな死んじまっただ(@馬の首風雲録)」。
2017/10/03 筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-2 1984年
2017/10/02 筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-3 1984年
2017/09/29 筒井康隆「虚航船団」(新潮文庫)-4 1984年