odd_hatchの読書ノート

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筒井康隆「全集15」(新潮社)-1973年後半の短編「スタア」「暗黒世界のオデッセイ」など

  1973年後半の戯曲と短編。

スタア 1973.10 ・・・ 戯曲。タレントの新婚夫婦が新居入居のパーティを開くことになった。苦労したときのために、ふたりとも元恋人やヒモがいて、ニュースになった彼らの生活に割り込もうとする。マネージャーに女中(ママ)は彼らにもてあそばされながら、彼らを手玉にしようとする。パーティ開始の直前、夫の前妻が子供を連れてきて認知しろとせまり、妻のヒモは脅しの電話をかけてくる。それぞれが誰も見ていないところで相手を殺し、死体の処理に困る。そこにパーティ参加者がやってきて気が気でない(というシチュエーションはヒッチコック「ロープ」だね)。うまいロースステークはどこのものかわからない(ダール「おとなしい兇器」)。ドアを開けると「天皇陛下」が現れ、そのマンションだけは地震を感じない。マッドサイエンティストが現れ疑似科学の説明をする。マンションにはどんどん人が増えていき、それぞれが勝手にやりだすので、人を殺した二人はうろたえる。周囲ではドタバタとスラップスティックが始まる。で、大混乱になり…。
 戯曲はよくわからないので評価のしようがないが、思い出すのは「ウィークエンド・シャッフル」で、これもまたひとつの場所に人物がどんどん入ってきて、主人公を困らせるという話。戯曲の様式を使って、今日的なエンターテインメントに仕上げたひとつ。こういう作品でも、SFを忘れないのは、SF作家としての自負。

 以下は短編小説。
講演旅行 1973.08 ・・・ 文駿社の百目鬼の手配で、講演旅行に出かけることになった。身重の妻を残し、毎日4枚のエッセイを書きながら。講演は成功するものの行く先々の市には書店がないし、エッセイを連載している夕刊も見当たらない。電話には「0」がない。「やつあたり文化論」も併せて読んでおくこと。

日本以外全部沈没 ・・・ すべての大陸は沈没して日本しか残っていない。小松左京の巨大な構想に対して、銀座のクラブの一室のドタバタ騒ぎのみというちんけさに笑う。
(当時の政治家、文化人、タレント、有名演奏家が数十人でてくる。21世紀にでた文庫では、人物紹介がのっている。発表当時は名前を聞けば瞬時に顔ほかの情報がでてきて笑ったものだが、ほぼ全員が故人になった今では注釈なしでは理解できなくなる。2006年の映画はどうやってクリアしたのかな。)

だばだば杉 1973.10 ・・・ タイトルの盆栽は枕元に置くと淫夢を見られるという不思議な性質をもっている。妻といっしょに寝ると、現実とおなじ風景で夢を見ていると意識したまま淫行の相手を探す。行為に及べないまま何度も寝起きを繰り返すと、淫夢を見ている人が部屋に来て、妻と寝てしまう。自分が夢の中の存在であると意識している人もいれば、これは私の夢であると現実にいる人が現れ、夢と現実の境があいまいになっていく。「虚人たち」へ通じる一歩(のひとつ)。

モケケ=バラリバラ戦記 1973.08-12 ・・・ どこか遠くの惑星で起きた戦争の記録。戦闘に巻き込まれた上、多元宇宙で次元放浪することになった人物の故郷帰還までの記録。惑星の戦争というテーマで「馬の首風雲録」から「虚航船団」「朝のガスパール」を想起し、放浪と自己回復というテーマから「虚人たち」に思いをはせ、断片の記録から「驚愕の曠野」を連想し、音素のみの言葉から「バブリング創世記」や和歌や短歌のパロディを思い出す。

通いの軍隊 1973.12 ・・・ ガリビアに派遣された日本の銃メーカーの社員。不良品をだしたために通勤する軍隊に派遣されてしまった。最前線でのてんやわんや。ベトナム戦争のような風景で、戦争を約30年していない日本人の滑稽な対応。でも、戦場はこういうおとぎ話ではないので、戦争をしないという国の決意は正しいのだ。あと、スペイン内戦の市民軍はまさに「通いの軍隊」であったとのこと(朝自宅で飯を食い、電車で戦場にいって、夕方帰宅して食事をとり睡眠する)。


 エッセイの中から。
暗黒世界のオデッセイ 1974.02 ・・・ 1974年からみた2001年の未来がどうなっているかを予測した記事。今(2016年)には、書かれた時期も対象にした時期もすでに過去になっている(全部の年を経験している自分からすると、当たり前のことなのに時間の経過がふしぎ)。もちろんほとんどあたっていないわけだが(人口爆発、全年齢層のいるスラム、公害の深刻化、化石燃料の枯渇と高騰がある一方、コンピュータの普及は触れられていないとか)、そのことに目くじらを立てるより、この小文が昭和40年代のひとつの気分を濃厚に反映していることに注目。あのころは短期的には悲観的で長期的には楽観的だった(21世紀の10年代は短期的に悲観的で長期的にも悲観的)。
 この時代の著者はドタバタや暴力劇やスラップスティックを書いていて、常識破壊の雄のように思われていた。でも、このエッセイのように、ベースになる知識は常識を踏まえていて、そう簡単に陰謀論ニセ科学には惑わされない。社会を見る仕方も中庸で極端にはぶれない。小説の常識破りは常識を持っているからというのは著者のほかのエッセイなどでの主張。それがここにも如実に現れている。