odd_hatchの読書ノート

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埴谷雄高「文学論集」(講談社)-3 作家の存在論とそのイメージ化。エッセイでのっぺらぼうがでてきても多分になんのこっちゃなんだが、「死霊」というフィクションでは強烈なリアリティを持つ。

2021/06/22 埴谷雄高「文学論集」(講談社)-2 1973年の続き

 

 第3部は作家の存在論とそのイメージ化。エッセイでのっぺらぼうがでてきても多分になんのこっちゃなんだが、「死霊」というフィクションでは強烈なリアリティを持つ。それもまた架空や夢で存在を考える作家の方法の成果。

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第三部 存在への接近
存在と非在とのっぺらぼう 1958.07 ・・・ 

「二十世紀は事実と事物の世紀であって、そのなかに置かれた文学の特質は、一方では、《戦争と革命》に対する力学を掘りさげることと、さらにまた、他方では、暗黒のなかで微光をはなっているような《存在論》を掌のなかに握って、宇宙論的ヴィジョンのなかに私達の生を置くことにある(P242)」

と埴谷はいう。でもアウシュビッツ収容所群島を経験した後では、「戦争と革命に対する力学」を運営したのはバカな指導者と無自覚・無思想・無感情の「凡庸な悪」であった。文学が力学を描くために複数名のキャラクターを掘り下げるが、力学を運営する膨大な指導者や大衆を全体でとらえられない。そこで、文学の役割の限界が露呈しているのではないかしら。この力学は政治学や経済学、心理学などの領域で検討されていて、そちらの成果のほうがひろく伝わっている。
 後半は「暗箱」「胚種」などのイメージからさらに展開される「虚体」の「のっぺらぼう」について。このエッセイ執筆時虚体は顔なしだったが、30年後には目鼻がついたのだった(「死霊」第8章1986年)。また作家はドスト氏は神が「のっぺらぼう」であることを認識しないことが彼の苦闘の最大の理由というが、ロシア正教神秘主義に傾倒するドスト氏は神の顔がのっぺらぼうであるとは絶対に認めないと思う。

夢について 1959.08 ・・・ 眠りと夢についての独我論的記述。精緻でありながら、およそ退屈なのは作家の体験や観察が観念化されるにあたって普遍や一般化する意思が毛頭ないところ。夢をコントロールする技術を作家は習得したらしいが、その方法は書かれていないので、読者は追体験できない。

可能性の作家 1960.01 ・・・ ハブロック・エリス、ベルグソン、スティーブンソンなどを引用しての夢の機能と構造の分析。文学の想像力の出発は夢によって保障されているとのこと。夢の分析は文中に出てくるフロイト(たとえば「精神分析入門」)のほうが汎用的。実際、フロイトの説で文学がたくさん作られた。で、こういう夢の機能で、余暇や夢で無意識が働いて、インスピレーションやイマジネーションがはぐくまれるという説明が出てくるが、これはおかしいと思う。結果から原因を作る実例。無意識はあるのではなく、事後に発見されるものだと思うから。機能や構造の力に無意識を置くのは誤りだと思う。そういうところで埴谷の論にはのれない。

不可能性の作家 1960.10 ・・・ ドストエフスキーとポオについて。
(以上の夢に関する文章を三つ読んでの感想だが、この書き手は他者との批判や対話(すなわち交通@マルクス)のない人で、書かれたものはモノローグなのだな、と。中二病の妄想を徹底すると、ここまで精緻な構築物を作ることができる。)

闇のなかの神仙 1965.09 ・・・ 不整脈発症時の存在論的恐怖。これも臨床医学からは別の記述ができるね。そうすると体験の意味がまるで変わる。このような神秘体験はあるキャラクターの口から語られると、キャラの特徴が際立つものだが、実在する人の口で語られると妙に空虚。そのキャラが口にする文脈や周辺状況が発話内容の意味を大きく変える。(ということは俺は「純粋体験」はないと考えているのか?)

パネルの上の黒いランプ 1964.11 ・・・ 「半覚半睡時の私の意繊の閥を越える漢とした想念は、私が先に、私の頭蓋のなかの灰明るいフロント向うのドアを出入りするものたちを黒衣をまとった何者ともしれぬもの(P326)」と規定した時のイメージ。最先端施設のパネルの点滅との共通性。発表誌がなんと「IBMレビュウ」。だから東海村原発を見学にいけたのね。この「黒衣をまとった何者ともしれぬもの」はたぶん「死霊第9章」に登場する黒服の男

存在と想像力 1970.11 ・・・ この<私>の存在を探求するための想像力。その話よりも、想像にあるイメージを小説にしたとき、実際にあったことかと尋ねる読者が頻出したという話に興味がある。作家の書いたものは事実や体験であるという強固な思い込みが日本の読者にはあるのだね。

思索的想像力について 1971.01 ・・・ 作家の方法の説明。

「(ほとんどの小説は)「世態人情の機微」、より正確には、「人間と人間との関係の機微」を仔細精密にうつしだすのが眼目であるが、(略)私の小説は「存在と意識の関係の機微」を描くことを主題としている(P337-8)」

「「想像的思惟」或いは「思索的想像力」と名づけているところの方法を駆使して作品を書いているのである(P339)」

「「その事物」のもち得べき「緊密度」は、単なる想像力によるイメージの果てもない氾濫による構築より、想像力と堅く手を結びあった思惟の厳密性によって統縦されることによってのみひたすら招来されると信じた(P341)」。

後書 『不合理ゆえに吾信ず』 「遠くからの返事」 ・・・ 久しぶりに再刊された「不合理ゆえに吾信ず」のあとがき。


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