odd_hatchの読書ノート

エントリーは2600を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2021/9/25

深水黎一郎「最後のトリック」(河出文庫)

 「読者が犯人」というアイデアは昔からあって、この国の作でも自分が収集した中では2例ある・・・と書こうともくろんでいたら、作中でちゃんと紹介されていた。それくらいに、著者はきちんと探偵小説の歴史と作例に造詣が深い。なまはんかな知識で読んでいたら、著者の手のひらの上で踊らされるのである。登場人物がいうように、作品の中と読者は存在のレベルが違うので、その壁を壊すのはとてもむずかしい。上にあげた二つの例にしても、いいがかりのような理屈付けか、読者を極端に狭くした特殊解としているのである(作品名もトリックも説明できないのはまだるっこしい)。
 さて、作家である書き手のもとに「読者が犯人」という不可能トリックのアイデアがある。ついては二億円で買わないかという手紙が届く。署名も住所もない手紙を著者は無視しようとしたが、雑誌の連載を控え、スランプにある書き手の「私」は心惹かれるところもある。文学好き(ミステリー好き)の友人に話をふっても、不信と冷笑が返ってくる。上に書いたようなレベルの壁を壊す困難さをいいたてるのだ。
 手紙を心待ちにする間に、書き手はある大学の超心理学研究室を訪ねる。超心理学を科学的な実験方法で説明しようと数や心的な試み。教授は、念動力や感応写真などは能力ではないという。完全に物理法則に反するから。しかしテレコキネス(精神感応)は失われたコミュニケーション能力であると考え、これひとつにしぼって、二重盲検などを使った実験を繰り返す。二つの実験が公開で行われ、ひとつは成功し、一つは失敗する。しかし、二重盲検と完全防音の設備を使った実験でもトリックが使われており、失敗と思われた実験の信ぴょう性が高いとされる解釈が行われる。
 手紙が3通届いたころに、書き手のもとに警察がくる。「読者が犯人」のアイデア提供者が失踪したこと、その直前に麻薬の売人になっていて接触していた外国人を殺害した可能性があることを告げにきたのだ。再度来たときには、書き手の作家は以上の出来事を実名を使った私小説として連載していたことを警察になじられる。失踪者に対するメッセージとなっているかもしれないからだ。そして、失踪者はある宿で心筋梗塞で死亡したことが連絡される。事件性はなかった。ほとぼりが冷めたころ、書き手の作家のもとに、生前最後の手紙が届く。
 そこにいたって、余計なことと思われた記述が「最後のトリック」を成り立たせる手がかりであったことに驚愕する。作品の中と読者の壁を破壊するのは至難のわざではあるのだが、なるほどと思わせる合理的な説明がなされていた。これは相当の熟考と小説のテクニックが必要。実現した著者の手腕に敬服。「読者が犯人」という前人未到ではないが、ほぼ開拓されていない難峰があると最初に宣言した後、探偵小説におなじみの事件らしい事件がまったく起きない。にもかかわらず、ページを繰る手が止まらないのは、ひとつは著者の語る蘊蓄(ミステリーと超心理学)が面白いからであり、もうひとつは著者の手練れの文章を読むからである。著者の経歴を見て、その手練れが一朝一夕でできたものではないことがわかる。地の文と、手紙と、「覚書」で文体を変え、手紙と「覚書」だけでしか知ることのないアイデア提供者の行動性向がかたられ、リアリティある人格を想像できるところがことに。(それでいて、書き手である「私」の性格造詣が弱いようにみえるが、それもまた「読者が犯人」トリックを成り立たせる一助になっている。そこまでの計算が働いている。もうひとつは一人称で書かれていること。私小説という説明が作中に出てくるように、一人称は書き手と読者の間に親密な共感を持たせることができるのだ。あるいは一人称の告白という形式は「真実」が語られているという思い込みを誘発するものなのだ。読書中、そこにトリックがあるかと思って注意していたのだが、作家の仕掛けた罠はもっと上を行っていた。一人称という形式にはいろいろな謎が詰まっているのだね。)
 という具合に、文学志向でスノッブディレッタントである読者の俺は絶賛したい。恐ろしいと思うのは、このアイデアに驚愕したあと、再読できるかということ。2007年初出。