odd_hatchの読書ノート

エントリーは3000を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2023/9/21

深水黎一郎「トスカの接吻 オペラ・ミステリオーザ」(講談社文庫) 日本初のオペラハウスで起きた演劇ものミステリー。オペラの現代的読み替えもミステリー的。

 オペラには人が死ぬ話が多くあり、ときには舞台で殺されたりもする。ふと思いつくだけでも、ワーグナー「トリスタンとイゾルデ」「神々の黄昏」、ヴェルディオテロ」、ビゼーカルメン」、ベルク「ヴォツェック」、ショスタコーヴィチ「ムツェンスク郡のマクベス夫人」などがある。たいていは男が男を、男が女をと、世の中の権力関係がそのままに現れる。でもプッチーニ「トスカ」は冷酷でサディストの悪代官の男を激情的な女性が刺殺する。権力関係を逆さにしたショッキングなできごと。そのうえ、ヒロイン、ヒーローに魅力的なアリアがあることもあって有名。

 さて、上野のオペラハウス(架空)がこのオペラを上演した。第2幕のラスト、トスカが悪漢スカルピアを刺し殺すとき、通常は模造品をつかうのに、その日は本物のナイフにすり替えられていた。世界的に名声を博す演出家は頸動脈を貫く演技をしろと指示してあったので、スカルピア役はそのまま亡くなってしまった。舞台上手と下手には上演関係者が常時いて、舞台の後方はホリゾントの幕や板の囲いで行き来できず、客席からは数千の眼が舞台をみている。模造品であることを幕あけ前に確認したので、取り換えられたのは上演中(第2幕はだいたい50分)しかない。いったいどうやって交換したのか。
 警察の捜査が行き詰まる中、今度は演出家が自宅で刺殺される。24時間風呂に入っている最中、何者かにナイフで刺された。鏡には口紅で「トスカ」のセリフ(「これがトスカの接吻よ」という殺害直前のセリフ)が書かれ、死体は腕を組んだ奇妙な姿勢でいた。いったいどうしてその姿勢をとったのか。 
 小説は主には警察の視点で語られる。職務に忠実な公務員は芸術には無縁とみえて、事件の関係者はオペラの上演、運営、演出、歌手などについて詳しく説明する。舞台にいる人ばかりでなく、小道具大道具、衣装、演出補佐などの裏方の説明は結局は舞台上が密室であることの補強する。そのうえ、殺人をリアルに演出した意図も聞きださなければならないので、演出、歌手、作曲家、台本などの芸術の側の情報も必須。そこで記述の大半はここに費やされる。海外の舞台ものではここまで詳しい説明はなかったと記憶するが(イネス「ハムレット復讐せよ」マクロイ「家蠅とカナリア」など)、俺はオペラに興味があるので、面白く読んだ。
(ことにオペラハウスは舞台と同じ広さのバックヤードが3面あって、別の幕の装置が用意してある。幕間で装置は取り外され組み立てられるのではなく、家を動かすように装置ごと取り換える。ときには舞台の後方のスペースを使って、とんでもない奥行きをだすこともある。1980年代のゲッツ・フリードリヒ演出「ローエングリーン」@バイロイト。)


 とりわけ興味深かったのは、オペラの演出における「読み替え」。19世紀のドラマをそのまま再現しても、リアリティに欠け、想像力が働かない。そこで台本のセリフを一切変えないで(変えると歌にならない)、新たなアクチュアリティを見出し、異化効果を狙う。このセリフを一切変えないという制限を課された状態でいかに新機軸を打ち出すか。うまくはまると、それは歴史的な事件として長く語られ、保存される。そこに演出家の苦労と責任と喜びがある。俺も、シェロー演出「指輪」やヘアハイム演出「パルジファル」のように映像で魅了されたことがある(ペーター・コンヴィチュニー演出「魔弾の射手」のように呆れ怒ったのもある)ので、楽しく読めた。くわえて作者による「トスカ」の読み替えの可能性が示唆され、なるほど台本の矛盾(なぜ冒頭に悪役のテーマが出るのか、なぜトスカは死の直前に恋人の名ではなく殺した相手の名を呼ぶのかなど)を合理的に説明する。これはおもしろい。加えて、その解釈が現実の事件(演出家殺し)の動機にかかわり、さらにプッチーニという芸術家の生き方にも関連しているというのは優れたやり方だった。きっと「トスカ」の読み替えから逆算するようにミステリーを作ったはず。
 こういう芸術の話のほうが魅力的だったので、解決は「まあそんなものでしょう」という感じ。第二の事件では動機をもっているのはただ一人(なのがあとでわかる)。その一人をよく隠しておけました。
 なお、この上演でヒーローを歌ったテノール歌手は「ジークフリートの剣」の主人公になる。書かれたのは後だが、事件は「トスカの接吻」のほうがあと。混乱しないように。

 

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 「トスカ」上演で起きたさまざまなトラブル・事件を全部盛り込んだマンガがあるので、あわせて読むとよい。佐々木倫子動物のお医者さん」第101話(文庫第7巻)。バブル時代の雰囲気が懐かしい。


 プッチーニ「トスカ」のよい聞き手ではないので推薦盤を上げられない。カラス、ゴッビが登場するサバータ指揮のものくらい。
同じ歌手による第2幕フィナーレ(スカルピア刺殺シーン)1958年パリ

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マリア・カラスとジョージ・ロンドンによる第2幕フィナーレ、1956年ニューヨーク、メトロポリタンオペラ

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これらとは別に、カラス、ゴッビのコンビが出演する第2幕全部の映像があったはずだが見つからない。たしかコヴェントガーデンオペラ。