odd_hatchの読書ノート

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夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-2

2020/06/05 夢野久作「ドグラ・マグラ 上」(角川文庫)-1 1935年
2020/06/04 夢野久作「ドグラ・マグラ 上」(角川文庫)-2 1935年
2020/06/02 夢野久作「ドグラ・マグラ 下」(角川文庫)-1 1935年
 

 というわけで、「ドグラ・マグラ」全巻が幕を閉じる。最後の「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」は冒頭に続き、物語の円環が閉じる。
 ここにはいくつかの謎がある。ひとつは前のエントリーにまとめた複数の刑事事件。この解決は最後に「私」が思い至ったのが「真実」ということでいいでしょう。なにしろ、警察などの第三者が捜査した情報はまったくなく、事件の関係者である若林教授と正木教授が収集整理したものしか「私」に渡されないのだから。しかもその情報はそれぞれ自説の補強のために集めたものであって、バイアスがかかっている。さらに若林と正木は警察に秘匿している情報もあるので、どうやらこれらの事件は警察のような第三者も十分な捜査を行えない迷宮入りの事件になるはずだ。とすると、とりあえず「すべての」情報を得たらしい読者にも判断できかねる。そうすると「私」が途中で考えたり若林教授が主張したような外部の犯人説も、何人かの犯人候補説も同等の確からしさをもっていると言わざるを得ない。
 もうひとつは書き手である「私」とはだれかという謎。これも確定的な答えはでてこない。というのも、「私」に情報を伝える若林教授も正木教授も「私」が「呉一郎」であることを思い出させようとしているが、「私」はそれを確信することができない。彼らの渡す情報からすると「私」が「呉一郎」であることは相当な確度であるようだが、自信をもって宣言することができないのだ。
 創元推理文庫では巻末に夢野久作の息子・杉山龍丸が「ドグラ・マグラ」を読んだ感想を記している。

「お父さま、判ったよ。この本、初めのブーンから終りのプーンまで、自分という人間が何であるかということを書いたもんじゃろう。二重、三重、いろいろのものにとらわれている人間というもの、人間の意識、そのとらわれているものを除いての人間とは何か、が書いてあるとじゃろう」

 これにつきるわけで、当時中学四年生(旧制)が三回読み直して到達したところがこれであるとすると、この慧眼には驚く(俺もほぼ同じ年齢で読んだがそのときは「さっぱりわからん」だったから)。なるほど、冒頭いきなり記憶なしで目覚めるところから、主人公は自分を探す旅に出る(とはいえ舞台は収容されている部屋と教授室だけ)。正木もこのようなアドバイスをしている。

「窓の外の君と、現在そこにいる君とが、互いにこれは自分だなと気が付いて来た時に、ハッと驚くか、又は気絶するかして覚醒するだろうと思うが、しかし、その時にはこの室も、吾輩も、現在の君自身も一ペンにどこかへ消え去って、飛んでもない処で、飛んでもない姿の君自身を発見するかも知れない(正木)」

 いくたの情報入手と冒険の末に確認したのは自分が怪物であるということ。なるほど、このような小説は、PKD、ジャブリゾ「シンデレラの罠」筒井康隆「虚人たち」、荒又宏「帝都物語」、笠井潔「黄昏の館」山口雅也「続・日本殺人事件」など様々に変奏される。そうすると、この小説は「私は事件の探偵であり、証人であり、被害者であり、そのうえ犯人でもある」という趣向の極めて早い時期に出たひとつであり、上にあげた同じ趣向のどれよりも達成度が高い(もちろん最高峰はソポクレス「オイディプス王」)。
 そのトリックが成立するのは、「私」なる人格が「信頼できない語り手」に他ならないから。とりあえずテキストは早朝から深夜までの一日を描いたようである。そうすると、資料を読み終えると自殺したといわれた正木が姿を現したり、若林とあっているときになかった前額部の傷が正木とあったときにできていたり、午後に街中をさまよった後に教授室に戻ると放置していた資料がきれいに整えられ埃をかぶっていたりする事態が説明できない。個々の記述は正確きわまりないのに、全体の整合性がとれていない。ともあれ、記憶を喪失することはかようであるのかと思うしかない。でもこれは最後に回答が書かれているのである。そこを捕捉すると、「私」の記憶はしょっちゅう分断される。1か月前に散髪されたことを覚えていない。物思いにふけってふいに我に帰ったり、うとうと眠くなるような気持にさそわれたり。わかることは彼の記憶は断片的で、現実と夢(遺伝心理で誘発される)の区別がつかない。小川洋子博士の愛した数式」の博士のように頼りない記憶の持ち主であるわけだ。
 加えると、小説に書かれていないことはこの手記を書いたこと。若林の用意した資料の中に「ドグラ・マグラ」という原稿束がある。それは「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」で始まり、「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」で終わることが明らかになっている。その記述を書けるものは「私」しかいないのだが、「私」の手記の中には自分が書いたことが記述されていない。すなわち、最後に大悟したように、「私」は覚醒して若林や正木の説明を聞き、「ドグラ・マグラ」文書を含む資料を読むことを何度も繰り返してきた(小説のなかで「遺伝心理」がそのように同じ行動をさせるということで説明しているし、正木が「私」に事件の決着までの資料を完成することを命じている)。その経験は覚醒とは別の機会に書かれていた。いかんせん記憶は断片的であり、当然記述の始まりと終わりはあいまい。そのような断片的な文書が多数書かれていた。それを現在、読者が読むようなかたちに編集する際、記述の中にある時刻をキーにして並べ替えを行った。その結果、日付の異なる文書があたかも同じ一日であるかのような錯覚が起きた。いったい「私」は何度覚醒したのか。少なくとも大正15年10月19日、20日、11月20日は確実であり、日付のわからないのちの日もあったはず。記述の日付と事件からタイムスケジュールを作ることができるだろう。最終場面で前額部を激しく打ち付けてできた傷が、正木と会った時にまだ痛みがあるとかで。俺はそこまでの根性はない。
 なので、「ドグラ・マグラ」で明かされなかった(ほのめかしすらなかった)重要な謎はいったい誰が犯人であるかではなく、いったい誰が文書を現在の形に編集したのかにある。推定されるのは事件に深くかかわっていて、表層の最後の刑事事件(治療場の惨劇と正木の自殺)の後も生存しているらしい若林。小説の中にいるものとしては彼以外にはありえない。文書の中では実行犯に指嗾した者がいると推定されているのだが、このような文書の編集者を想定すると、文書の記述自体の信ぴょう性が疑われる。正木の説明する若林のライバル心が事件の遠因であるとすると、最後に事件の「責任」をとることになるものが書き替えられている可能性がでてくるのだ。そういう疑惑が起こると、「ドグラ・マグラ」全体の信ぴょう性もまた疑わしくなる。もちろんいつか正気(とは何か)に戻った「私」が現在あるように編集した可能性もあり得る。魅力的な妄想は、手記を書くという行為もかつて呉青秀が行った可能性があり、「私」は心理遺伝で行為を反復しただけなのかもしれない。そうすると、いったい作者はどこにいるのか、だれと名指しすることができるのか、テキストを書く行為は自発的で独自性のある事なのか。そういう懐疑にとらわれ、「……ブウウウ…………ンン…………ンンン…………」の音といっしょに、暗溶していく。

      

 

<参考エントリー>

アドルフォ・ビオイ=カサーレス「モレルの発明」(書肆風の薔薇)