「シャーロック・ホームズの回想」の「最後の事件」でスイスにある滝つぼに落ちてから8年。彼を慕う読者の要望は数知れず、ために「最後の事件」の前におきた大冒険を長編にすることになった。「回想」がでてから8年後の1902年のこと(雑誌連載はその前年)。
イギリス南西部の旧家バスカヴィルには魔犬伝説がある。当主が犬に襲われて死ぬという内容だ。実際に、前の当主チャールズが犬に襲われて死んだ。莫大な資産をもっているバスカヴィル家はアメリカに渡った息子を呼び寄せることにした。モダンで子供っぽい息子ヘンリーの身辺にはおかしなことが起きる。脅迫状が届き、新品の靴が片方盗まれ、怪しい男が身辺を嗅ぎまわっている。不安なヘンリーはホームズにボディガードを依頼した。ふだんこういう事件には興味を持つはずのホームズは、ワトソンも知らない事件でロンドンを離れられないといい、代わりにワトソンに従わせる。
館につくと、奇妙なことが起きる。執事夫婦はいとまごいを申し出て、近くの監獄から脱獄囚が出て邸の周りにうろついているらしく、深夜には女の鳴き声が聞こえるもそんな人物は周囲にいない。夜には湿地帯の周りの森で灯が点滅し、昼には子供が森の中に入っていく。用件はわからない。邸のあるムアは湿地帯で、ちかくに底なし沼があり、慣れていないと歩くことができない。その湿地帯を縦横無尽に歩けるのは、自称・博物学者の兄妹だけ。兄の顔はどこかで見たことがありそうだが思い出せない。博物学者の妹はワトソンを見るなり、「ここに来るな、ロンドンに帰れ」と怯えた表情で警告する。訴訟好きな偏屈爺さんは望遠鏡で周囲を見張るのが日課で、最近のターゲットはワトソンその人。偏屈爺さんの義理の娘は夫のDVに耐えかねて離婚し、今はひとり暮しをしているが、どうやら死んだチャールズは頻繁に会っていたらしい。ヘンリーは博物学者の妹に、その博物学者は偏屈爺さんの義理の娘にそれぞれを恋心を抱く。
今回の事件の特長は、ホームズが姿を現さないことで、そのために好漢ではあるが読者より頭の回転の鈍いワトソンの冗長な報告を読まされることになる。これがなかなか苦痛で、ムアの状況を知るにはよいが、事件の輪郭を錯綜させるばかりで、ほとんど役に立たない。いったい、ヘンリーの周囲に怪奇なことは起きても、事件性がないものだから、探偵小説的な現場検証や証言聞き取りを行えない。かわりに、この時代にあっても古めかしいゴシック・ロマンスを読まされることになる。莫大な資産を残した旧家、アメリカという外部からやってくる望まれない異邦人、古い因習にとらわれた田舎の人々とそこに残るオカルトめいた伝説、影のある女性、異邦人と謎めいた女性のロマンス。そういう意匠がそこかしこにある。物語の進行での明らかになるのは、事件の新しい様相ではなく、住んでいる人たちの隠して起きた血縁関係。部分的な謎が解けるが、それはこいつはあいつのこういう血縁だったということばかり。表層ではわからない個人的な係累があきらかにされるというのは謎解きではあるけど、探偵小説ではないよな。
全編の3分の2が過ぎたところで、ホームズ登場。そこから一気に物語が加速して、ヘンリーが襲われるわ、ホームズが待ち伏せのわなを仕掛けるわ、と犯人(名指しされても意外性がない)を追い詰めていく。このサスペンス(月夜に魔犬のシルエットが浮かび上がるという美しい映像付き)がクライマックス。
これでホームズの長編を3つ読んだが、作者は長編探偵小説は苦手だな。ほぼ同時代のザングウィル「ビッグ・ボウの怪事件」、ルルー「黄色い部屋の謎」よりもストーリーは遅れているぞ(ただし、ほかの長編のような二部構成「事件」と「因縁」をとっていないところはよい)。
むしろストーカー「吸血鬼ドラキュラ」、ウィリアムソン「灰色の女」、マッケン「夢の丘」、ウェルズ「透明人間」のような怪奇、伝奇、ホラーの系譜に並べたほうがふさわしい。
ピエール・バイヤールが「シャーロック・ホームズの誤謬 (『バスカヴィル家の犬』再考)」で、「真犯人」を推理している(という。未読)。あるいは、2017/7/8(または9/3)にNHK-BSプレミアムで放送された「シリーズ深読み読書会『バスカヴィル家の犬』」では、別の人物の関与しているという推理も披露されている(本作では影の薄い医師に注目し、名前の類似からあの人を浮かび上がらせる読み方は面白かった)。ホームズは同じ性格を持つホームズの分身と戦うことになるなどの読みも刺激的。この退屈な話からよくも見出したものと感心。

シャーロック・ホームズの誤謬 (『バスカヴィル家の犬』再考) (キイ・ライブラリー)
- 作者: ピエール・バイヤール,平岡敦
- 出版社/メーカー: 東京創元社
- 発売日: 2011/06/29
- メディア: 単行本
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