というわけでしばらくイギリス探偵小説を特集する。
「12月初めのその朝、ロンドンのボウ地区で下宿屋を営むドラブダンプ夫人は、いつもより遅れて目を覚ました。下宿人のモートレイク氏は労働運動指導のため、すでに出かけてしまったと見える。霧深い冬の朝だというの二、夫人はモートレイク氏の友人の下宿人を起こしに二階へ上がった。ドアには鍵がかかり、いつまで経っても返事はなかった。それから数時間後、新聞売りの少年が威勢よく叫んでいた―――ボウ地区で身の毛もよだつ自殺事件、博愛主義者、咽を掻っ切る! ポオの「モルグ街の殺人」の衣鉢を継ぐ密室ミステリの古典的傑作。(裏表紙のサマリ)」
殺された友人の下宿人というのはアーサー・コンスタント。彼はさまざまな慈善活動に熱心に取り組んでいて、労働運動の指導者と知り合っていたのだった。ドアを叩いても返事がなかったので、隣人の元刑事グロスマンを呼び出して、ドアを壊したのだった。グロスマンが飛び込んで死体を発見。ドラブダンプ夫人は部屋の窓に鍵が内側からかけられていることを証言する。事件発生の描写はこれだけ。その後は検死審問の場となり、夫人にモートレイクにグロスマンに現場を確保した警官の証言が続く。自殺にしては様子がおかしい(手を頭の後ろに組んでいたとか、その日の朝の予定を夫人に伝えていたとか)ので、殺人とみなされたが、方法も犯人も皆目わからない。
さて、ここで話が変わる。グロスマンは刑事引退後「わたしの捕えた犯罪者たち」という本を出版し、大成功していた。そのゴーストライターをやっていたデンジル・キャンタロットは金がないのでグロスマンに借金を申し込んだがすげなく断られる。そこでウィンプなる警部にタレこみにいく。まあ、1ポンドをようやく手にするが、即座に情婦に奪われる(「お金を返してね」「新しい帽子を買いたいの」。失意のデンジル。このギャグは2回行われる)。ウィンプ警部はモートレイクに目を付け、彼が事件直前に婚約を解消していることに注目して、コンスタント死去追悼集会の壇上でモートレイクを逮捕。官憲の横暴に怒った民衆はモートレイク助命嘆願の運動を開始する。死刑執行の直前にグロスマンは警察長官を訪れ、解決を語りだした。
江戸川乱歩の注目したのは、(1)意外な犯行方法(ちなみに作中では、犯人は密室の扉の影に隠れ、ドアが破られたのち、死体に注意を奪われている間に逃げ出すという案が語られている)、(2)意外な動機(痴情、怨恨、遺産相続、思想、宗教などの範疇に収まらない。チェスタトン的な意外な理由だった)。どちらもしばしば言及されることなので、ここでは省略。
自分が注目するのは、別のところ。
・事件が起きたのは町の下宿屋で、関係者は貧乏人や労働者。博愛主義者で金などもたず、誰からも好かれる良い人が被害者で動機が見当たらず、行きずりの殺人にも見える。密室といってもその建物は出入り自由。すなわち田舎の一軒家とか都会の大邸宅など、関係者しか出入りができない特殊な場所ではない。というわけで、ポオ「モルグ街の殺人」と同じく、都会の殺人事件であるところ。人間関係は希薄で、たがいに過去を(場合によっては現在も)知らない間柄であるところ。
・当時の風俗の反映。労働運動が盛んになった時期であること(1889年パリで発足した第二インターナショナル系の運動だったのだろう)。電気のない時代、人は夜明けとともに起き、日没前に帰宅し、深夜徘徊するのは危険であり(ジャック・ザ・リッパー事件は出版3年前の1888年)、拡声器もPAもない舞台に上って、人は自らの声の大きさのみ使って演説するのであった(それはほんの100年前のこと)。オカルト、神智学が盛んになっていて盛んに読まれていたこと(訳者はこのあたりの知識に不足していたのか、ブラヴァツキー夫人は「ブラバトスキー夫人」、神智学は「見神論」と訳されていた。1891年はブラヴァツキー夫人死去の年)。
・作者は1864年生まれで執筆時27歳。ガボリオ、ボアゴベ、コナン・ドイル(「緋色の研究」は1887年)など先輩諸氏に対抗するかのように新しい探偵小説を書いた。新しさは自分の注目したところあたり。すなわち、ゴシックロマンスや怪奇小説とは縁を切り、風俗描写(ちょうど自然主義文学の隆盛期)を多くし、合理的な思考を全編に貫徹しているところ。ザングウィルは19世紀末の「新本格派」だったわけだ。まあ、19世紀の小説に読みなれていないと、いくつかの描写は冗長だし、最終章の解決が唐突であるとか、いくつかの証拠は書かれていないとか、デンジルのエピソードと事件の関係が薄いとか、瑕疵に目がついて読みにくい。
訳者解説によると、探偵小説はこれひとつのみ。その後はシオニズム運動に参加し、1926年に死去したとのこと。