1890年代というと、ヨーロッパでは内乱や蜂起がなくなり、ヨーロッパを主戦場にする国家間の戦争も小休止。第一次世界大戦までの束の間の平和を楽しんでいた。しかし、アフリカや中近東、東アジアの植民地化を推進する帝国主義国家は、西欧の外では植民地を制圧する戦争をして、西欧内では丁々発止の外交を行っていた(同盟とか協約とかを頻繁に結び、集合離反を繰り返す)。そうなると、スパイの暗躍するところとなり、外交機密やスキャンダル文書、新兵器などの情報を盗み、奪還しようとする。そこにおいて暗号術が発展する。その影響か、ホームズ譚には暗号が多く登場する。実際に使われて、古びた手法(ホームズ以前にメディアで紹介されるくらいに)なのだろう。
ライゲートの大地主 The Reigate Squires ・・・ 大事件を解決して療養中のホームズが地元の事件に駆り出される。窃盗がはいったが、価値のないものばかりが盗まれ、御者が殺されていた。手にはちぎれた手紙の一部。ホームズは病み上がりをおして捜査する。手書き文字にも情報が含まれている。通常な文字の意味にだけフォーカスするところ、ホームズはささいな違いを見落とさない。
かたわ男 The Crooked Man ・・・ インドに勤務経験のある大佐が妻と二人でこもっているときに、夫婦喧嘩に発展する。異常な様子を聞いて、部屋を開けると、大佐は後頭部を打たれて死亡。妻は卒倒している。大佐の奇妙に歪んだ顔。夫妻の周囲で見かけた背中の曲がった男。事件の鍵はインドにある。不思議な生き物としてマングースが登場。ウィリアムソン夫人「灰色の女」に数年先行している。
入院患者 The Resident Patient ・・・ ある篤志家の援助で医院を立てた若手の医師がホームズのところにやってくる。カタレプシーの患者が来たのだが、目を離したすきに消えてしまった。篤志家は自分の部屋に誰かが侵入したと騒ぎ、ホームズの援助を断る。翌朝、篤志家が首つり自殺しているのが見つかった。ここでも、失業者に舞い込む好条件の求職案内は身につかないという教訓が。資本主義の勃興期には、こういう起業家に気軽に投資していたのだね。
ギリシャ語通訳 The Greek Interpreter ・・・ イギリスには珍しいギリシャ語通訳の奇妙な冒険。深夜に仕事の依頼があったが、馬車の窓は紙でふさがれてどこに行ったか分からない。依頼主は何ごとも告げるなと威嚇する。周りの連中がギリシャ語を解さないので、筆談に追加の質問をしてみた(ここが唯一の「トリック」)。ホームズの兄マイクロフト登場。頭は切れるが怠惰で、巨漢。ネロ・ウルフのおじいさんみたいな存在。ギリシャは独立運動が継続していて、バルカン半島はトルコの勢力が衰えてから、危険でいっぱいな地域。
海軍条約文書事件 The Naval Treaty ・・・ 外務大臣から秘密条約の写しをとるよう命じられた。作業は遅々として進まず、コーヒーを頼みに部屋を後にしたら、その間に文書は盗まれてしまった。あまりのショックで寝込んでしまい、10週間たっても見つからない。ホームズに頼ると、一日で解決した。当時、ドイツ-オーストリア=ハンガリー、イタリアの三国同盟は、イギリス-フランス-ロシアの三国協商と対立していた。なのでイギリス-イタリアの秘密条約はなるほど国家の機密であるわけだ。そのような政治状況を背景にした探偵小説はほかにもあったな。この短編はほかの回と違って二回分の長さをもつが、さほど面白いものではない。意外な隠し場所に関する心理的なトリックと、ホームズのお茶目さが目につくくらい。
最後の事件 The Final Problem ・・・ 西ヨーロッパを震撼させている巨大犯罪組織。その黒幕であるモリアーティ教授をホームズは独力で追い詰めた。組織を一網打尽にする手配を終えたとき、モリアーティ教授はホームズに挑戦してきた(この最初の邂逅は見事な描写)。ホームズはワトソンを連れてスイスに渡る。ライヘンバッハの滝でワトソンはホームズと長いお別れをすることになった。探偵小説としてはみるところはないが、のちの冒険アクション小説や映画のプロトタイプがここにある。謎の犯罪組織、首魁との邂逅、追いかけっこのサスペンス、最終決戦。こういうところ。モリアーティ教授もこの一編だけの登場で、永久に名を残すことになった。
のちにクイーンやカーの短編に代表されるような純粋探偵小説はほとんどない。近代の都市でおこる犯罪譚や田舎家で起きる怪奇譚、アメリカや東欧などの辺境で起こる冒険譚など。ポオが先駆的に純粋探偵小説を作り上げたが、その継承者はむしろ犯罪小説やラブロマンスなどに探偵趣味をまぶすようにしていたが、ドイルにしてもその範疇の中にいたのがわかる。探偵小説の形式化はやはり1920年代のアメリカ長編小説で起きたのだろう。
では、コナン・ドイルの新しさがどこにあるかというと、ひとつは文体。装飾の言葉を使わず、名詞と動詞で描写を完結する。比喩が少ないから文章が古びない(なので恐怖やサスペンスやロマンスなどの感情を刺激するところでは物足りなくなる)。もうひとつは徹底した合理主義と懐疑主義者であるホームズという人格。こういう人物はいないわけではなかったが(ツルゲーネフ「父と子」のバザーロフとかドスト氏「悪霊」のスタヴローギンなど)、社会に背を向けたり人付き合いが悪かったりなど、「異人」扱いだった。それが科学と論理が浸透するイギリスでは、愛嬌のある好意的な人物に変貌できる。あわせて社会的正義漢の持ち主であることも。(コカイン愛飲は20世紀半ば以降はアンモラルであるが、19世紀末には多めに見られていた。)
後半になると、トリックの創意もなくなって、作者コナン・ドイルがホームズに飽きているのが目に見えるよう。
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