odd_hatchの読書ノート

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ウィルキー・コリンズ「白衣の女 上」(岩波文庫)

 初出1860年というと、この国はまだ封建時代にいて、このような近代的自我を描く小説はなかった。汽車と馬車と徒歩で移動し、郵便で情報交換するしかない時代の物語は悠揚迫らず、心地よい陶酔(睡魔ともいう)に読者を誘う。筋立てや謎はゴシック・ロマンスの形式にあるが、人物へのまなざしは近代なのである。

第1部
クレメンツ・インに住む絵画教師、ウォルター・ハートライトの話 ・・・ 貧乏な絵画教師ウォルター・ハートライトくんは苦境を助けたイタリア人によってリマリッジ館のフェアリー家の住み込み教師になれた。生活の苦しい母と妹を残すのは心苦しく田舎町に行くのは気が重い。出発のまえ、深夜のロンドンの街道で全身白衣の女に会う。浮世離れした受け答えをする若い女性にハートライトは一目ぼれ。別れた直後に警官がきて、「白衣の女を見なかったか。精神病院から脱走したのだ」と尋ねる。なんとなく受ける気にならないカートライトは見なかったと答えた。さて、リマリッジ館にいたのは病弱な当主フレデリックと、娘二人(父違いの兄弟)。美女の妹ローラにハートライトはここでもひとめぼれ。なんとなれば白衣の女にそっくりだから。一方、姉マリアン・ハルカムは不美人(色黒だけでそういうのはかわいそう)。世話好きで、人の心をよく読み、ハートライトを励ます(まあ、それは妹ローラに近づく男を追っ払うおせっかいともいえるが)。幸福な暮らしののち、ハルカムは館を立ち去るように、なんとなればローラはパーシヴァル・ブライト卿と婚約したのだから。ハートライトは失意のうちに退職を決意。そこにローラへの誣告状が届き、結婚を止めるように脅迫。どうもフェアリー館には、かつてアン・キャセリックという女性が住んでいて、彼女の存在が館の一大事になっているらしい。ハートライトが館を立ち去る数日前、フェアリー家の墓地に幽霊をみたという噂がおこり、確かめるとあの白衣の女が墓の掃除をしていた。カートライトは話しかけ、また会おうという約束をしたものの、白衣の女(どうやらアン・キャセリックらしい)は先に旅立ってしまった。どうやら誣告状は白衣の女が書いたもの、女を精神病院に収容したのはパーシヴァル卿らしい。ハートライトは調査をフェアリー家の顧問弁護士ギルモアに託す。

チャンスリー・レーンに住むヴィンセント・ギルモア弁護士の手記 ・・・ パーシヴァル卿がリマリッジ館に来訪。ローラははっきり嫌悪感。知っているはずのフェアリー家の犬がパーシヴァル卿に吠える。ローラは資産(莫大な不動産と金)をハルカムに残したいというが、パーシヴァル卿は自分のものだと主張。当主フレデリックの事なかれ主義でパーシヴァル卿のいいなりの文書をギルモアは腹立たしくなりながら作成。ハートライトは外国に行こうかと思案中。

マリアン・ハルカムの話(日記からの抜粋) ・・・ ローラはパーシヴァル卿に愛していないから婚約を破棄してほしいと、勇気を振りしぼって告白した。しかしパーシヴァル卿は如才なく受け入れる。結婚式はおよそ二カ月後。ローラとマリアンは最後の日々をせいぜい楽しく過ごそうとするが、うつうつと心は晴れない。ハートライトはホンジェラスの遺跡発掘調査隊の製図工に雇われ、イギリスを後にする。ローラの望まぬ結婚式が行われる。


 純情で世間知らずのウォルター・ハートライトくんと可憐な美女ローラ・フェアリーちゃんの恋愛は互いの一目ぼれで始まる。でもこの恋愛は最初からいくつもの障壁がある。まず、階級が合わない(ハートライトは平民で、フェアリーはジェントル)。ローラには20歳も年上の貴族の求婚者がいて、父の信頼をえている。なので、ローラの母代わりの姉がハートライトの愛を断念するよう説得し、離れ離れにする。求婚者の貴族は年上の礼儀正しい悪党然としていて、嫌みで神経質で見えっ張り。恋敵としては理想的。第1部はローラとパーシヴァル卿の結婚と、ハートライトのイギリス追放で終わる。この恋愛の当事者が遠く離れてしまい、読者をやきもきさせる。
 しばらくは、ハートライトとローラとパーシヴァル卿の三角関係が軸になって進むと思われるが、さらに白衣の女の存在が気になる。このローラそっくりの謎めいた女性にハートライトは最初に見初めたわけで、ハートライトの恋心がどこに揺れるのかはまだわからない。ハートライトとローラの恋は、男のライバル・パーシヴァル卿との闘争があるのと同時に、女のライバル・白衣の女との闘争がある。それぞれ同性のライバルと戦わなければならないのであって、ふたつの三角関係がどのようにもつれるのか、ここが読みどころになる(はず)。
 礼節をまもるハートライトと、内気なローラ(19歳)では恋愛が進行しないので、それを取り持つのが、ローラの父ちがいの姉マリアン・ハルカム。自分の不美人と認識しているためか(そんなことねーよ)、自分の恋愛は秘匿し、母性を前面に出してローラを保護しようとする。その過剰さがハートライトを傷つけ、励まし、行動に向かわせる。この人物造形がとてもよい。他の人物がいわば漫画化されたキャラクターだが、ハルカム嬢だけは存在感がある。
(この時代にはめずらしいはずの、知的教育を受けた女性。文章を正しく綴れることが、観察力を高め公正な評価をすることになる例だと思った。ときに感情的になるのは、やはり男性作家の偏見がはいっているためか。)
 書かれた時代、ロシアではドストエフスキーツルゲーネフなどが、個人の懊悩と社会の不安と形而上学的難問をごった煮にした小説を書いていた。小説の形式や主題が錯綜した複雑で巨大な作品だった。社会の不安や民主主義の欠如、経済の停滞と貧困の拡大などがある場所では、おのずと社会の不条理や理不尽を直視しないわけにはいかない。ところが、民主主義の制度が整い、資本主義が発展しているイギリスでは、そのような「巨大さ」は小説に現れない(まあ、この時代のイギリス人作家はのコリンズとディケンズくらいしかしらないのだが)。個人の内面を繊細に描写することに注力し、社会の問題や哲学は小説に盛り込まない。この違いが面白い。

      
 

2018/02/26 ウィルキー・コリンズ「白衣の女 中」(岩波文庫) 1860年
2018/02/23 ウィルキー・コリンズ「白衣の女 下」(岩波文庫) 1860年