odd_hatchの読書ノート

エントリーは2400を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2020/10/13

F.ハプグッド「マサチューセッツ工科大学」(新潮文庫)

 テーマはふたつ。
 まずエンジニアリングについて。この国の「技術」とは一致しないし、「科学」でもない。エンジニアリングは科学とは補完関係にあって、互いに相手を包含しているという、やっかいな概念。本書では、数回説明があるが、腑に落ちるのはエンジニアリングは問題解決空間にあるもの。何かビジョンをもっているのではなく、目前の問題(トラブル、不合理、非生産的行動、無秩序、無制御など)を解決するために、知識や技能を総動員しようとする運動。自然のモデル化を目指す科学とは異なる。とはいえ、エンジニアリングの方法は科学と重なるし、科学の一部はエンジニアリングの手法を用いている。排除ではなく、応用でもない。知識や技能の混合や統合、接続する文化であるとの由。
 おもしろいのは、答えに窮するところにいったら、ブレークスルーが起きるという指摘。それは自分も経験したことであるし、本書中ではいくつかの事例が載っている。まあ、世の中のビジネス書にはその手のブレークスルーを招致させる方法を書いてあるのがたくさんあるので、読んでみてはいかが。有用であるかどうかは知らないが。
 その事例が本書にでてくるのだが、1995年ころに書かれたらしいので、すでに古い。鉄道模型や義肢開発の古い事例の方がおもしろく、当時としては最新の話題であるナノテクノロジーやマイクロマウスの話はもうどうでもいい。win95以前のコンピュータのこともどうでもいいや(21世紀のPCをみていると、エンジニアリングによるブレークスルーはあまりみられなくて、部品のスペック向上による処理速度の上昇で問題を解決しているようで、機械をいじり使い倒す面白さがない)。
 もう一つの話題は、MITという組織の歴史。企業の援助を受けて、個人が設立した大学がもっと古い私立大学を抑えて、さまざまな分野のブレークスルーを起こし、最優秀な頭脳の持ち主をたくさん集めて、現在もリーダーシップをとっている。ここでは日本の研究開発体制との違いに注目。この国では研究開発や科学研究はほぼすべて官制の大学や研究所。国が予算をだして、研究の方法を外部が指導するという制度になっている(そのわりに戦時科学動員では研究者は消極的にしか参加協力しなかったのだが)。アメリカでは戦前までは国や自治体の設立した大学や研究所はない。MITもそうで、国や自治体の援助はない。そこで研究者(年を取ってマネジメント専門になった人)が企業を回って、寄付金や支援金を募り、その金でプロジェクトをつくる。なので、新参の研究者が資金集めに成功すると、研究施設のトップになることもできる。そこまでいかなくとも、大学院生が開発プロジェクトを運用できる。そういう裁量が院生にもある。
 科学やエンジニアリングは自由主義となじんでいて、組織の運営よりも個人の権利が尊重され、問題解決にあたっては個人は平等であるのが貫徹されている。だから院生であっても、自分の責任と裁量で開発や研究ができる。一方、日本では民主主義が優先されるので、組織の運営に口は出せても、個人の裁量範囲は限定的。エンジニアリングの現場で、戦後からしばらくは多人数のチームで開発するとき、日本はうまくいっていたのだが(自動車エンジンとか白物家電とか)、PCを使って個人のワークの積み上げになると、日本のチーム開発はうまくいかない(ように思える)。東京大学の国際的な評価も低くなっている。なぜ東大はMITになれないのかは今の高等教育と研究体制を考える問いになりそう。
 自分の関心は、このようなプロジェクトの違いにあるのだが、本書はそこは関心の外にあるよう。最初はおもしろかったが、しだいにつまらなくなる読書だった。