odd_hatchの読書ノート

エントリーは3200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。2024/11/5

サイモン・シン「暗号解読 上」(新潮文庫) 西洋、とくにイギリスは暗号好き。チューリングがひとりでブレークスルーを果たしたわけではない。

 モルテン・ティルドゥム監督の「イミテーション・ゲーム/エニグマと天才数学者の秘密」2014年をみたので、エニグマ解読のことを知りたくて本書を入手した。

 映画はアラン・チューリングを主人公にして、彼の功績で解読に成功したように見せているが、実際はそのまえにポーランドの数学者(WW2開戦後イギリスに亡命して解読作業に従事した)が解読に成功していたということだ。その後ドイツはエニグマを改造してより複雑な暗号を作れるようにしたので、ポーランドの数学者の方法では間に合わなくなったのをチューリングがブラッシュアップした。またチューリングが所属したチームは最大数千人が所属し、さまざまな仕事をしていた。チューリングは天才ではあったが、解読チームを率いるマネジメントをしていたわけではない。という具合に、映画はフィクションが多いのが分かった。ひとりの天才科学者がWW2の趨勢を変えたという英雄譚に浸りたい欲望はあるが、20世紀以降の科学はチームや集団で行われ、個人で業績を上げるのはきわめて困難という寂しい事実を知ることになる。

 本書「暗号解読」の上巻は有史から1945年ころまでの暗号の歴史をあつかう。ある特定の人には情報を伝えたいがそれ以外にはちんぷんかんぷんにしたい。情報は発信者と受信者が離れているので、途中で傍受・奪取されたりする。そうすると秘匿性がうしなわれるので、送信するテキストを一見しては意味がないがあるルールに当てはめると解読することができる。初期は簡単な方法だった(それこそピタゴラ暗号棒のような)

が、次第に複雑になって行く。そこには暗号の生成と情報の送信と暗号の解読の三つの技術革新があった。これらの詳細は啓蒙書である本書を読んでも、自分のあたまにはうまく入らない。
 そこで、暗号の歴史の中で自分の琴線に触れたことをメモ。
・中世の暗号が関与した事件に、ブラディ・メアリー裁判、鉄仮面がある。いずれもさまざまなフィクションが書かれ、「謎解き」が行われている。

・19世紀にモールス信号が開発され、ケーブルによる電信システムがヨーロッパ中に張り巡らせられる。ビジネスと軍隊が使うようになって急速に普及。世紀末ごろには無線電信ができるようになり、大陸間のやり取りが可能になる。
(1844-46年にかけて出版されたデュマ「モンテ・クリスト伯」にはケーブルによる電報が登場する。)
アレクサンドル・デュマ「モンテ・クリスト伯 下」(講談社)

・こうした背景があって、とくにイギリスでは個人が新聞の3行広告に暗号文を掲載することがあった。ビクトリア朝時代の道徳で、未婚の男女の交際(手紙でさえ)が制限・禁止されていたため。それ以前からクロスワードパズルが流行っていて、暗号人気があり、19世紀末には暗号小説が人気になる。今でもよく読まれるドイルやエドガー・A・ポーの暗号譚はそうして生まれた。
エドガー・A・ポー「ポー全集 4」(創元推理文庫)-1「黄金虫」 
エドガー・A・ポー「ポー全集 4」(創元推理文庫)-3「暗号論」 
 コナン・ドイル「シャーロック・ホームズの帰還」(新潮文庫)-1「踊る人形」 1905年
レイモンド・T・ボンド 編「暗号ミステリ傑作選」(創元推理文庫)
この事実は驚き。100年以上前のフィクションは今でも読まれるが、その時代背景は忘れられるのだ。こういうサイエンスノンフィクションが文芸の話とつながるというのはおもしろい。

 WW1以前の暗号法は江戸川乱歩が「探偵小説の謎」に収録した論文で解説しているので、参照されたい。
暗号記法の分類

www.aozora.gr.jp


・暗号を解読するには「規則性と構造」「反復」がカギ。大量の暗号文を集めると、解読に至ることができる。WW2中にドイツのエニグマ暗号をイギリスの機関が解読できたのは、膨大な情報を収集し、優れた暗号解読者を集め、ときにスパイを使って敵のコードブックを獲得し、解読プロジェクトに潤沢な資金と人員を投入したからだ。
(映画のように一人の天才が超人的な頭脳と努力でブレークスルーを果たした、とは考えないように。)

・西洋、とくにイギリスでは暗号を使う歴史が長く、市民・庶民レベルで暗号を楽しむ風潮があった(上記の暗号小説の流行などにみられる)。翻って、この国ではどうか。言葉遊びはいろいろあるが、暗号といえるほどのものはない。WW2では日本軍も暗号を使ったが、さほど熱心に改良しなかったようだし、解読チームを編成することもなかった。とくにミッドウェーでは情報戦、暗号解読戦で遅れたので、勝敗が決まってしまった。形のないものにリソースを投入しないこの国の特長がよく見て取れる。


 

 で、上巻を読んでから半年以上たったが、下巻はいまだに読んでいない。