odd_hatchの読書ノート

エントリーは2200を超えているので、記事一覧よりもカテゴリー「INDEX」をご覧ください。

サンリオ編集部「悪夢としてのP・K・ディック」(サンリオ)

 さて、8カ月(2016.11-2017.06)かけて手持ちのPKDの長短編を48冊読んだ。その間、意識的に評論を読まずにいたわけだが、全部読み終えた今、読み返すことにする。これは1986年にでた評論集。たぶん「あぶくの城 -フィリップ・K・ディックの研究読本」(北宋社、1983年)とこの本くらいしか、PKDの評論は出ていないと思う。雑誌の特集はいくつかあった。

彼の描いていた世界の中で(J・ワグナー) ・・・ 1985年に書かれたPKDの伝記。たぶん最も早いもの。両親との不和、双子の妹の死のオブセッション、うつ、アンフェタミン覚せい剤)多用、パラノイア、神秘体験、結婚と離婚の繰り返し、安い原稿料と長時間の執筆、数回の自殺未遂。
人間の無力あるいは作者の喪失(笠井潔) ・・・ 「高い城の男」論。
ディック断想(水鏡子) ・・・ SFを書いたのは「電気羊」まで、「ユービック」のあとは自分の思いを反映するためにSFを剥いでいった。生涯の主題はシミュラクラ。「ヴァリス」三部作は神学対象へのスタンスを組み替えていく慎重さがあるので、神学談義にとらわれることは不要。グロリアと死んだ猫の出てくる数章に対する答えと思えばよい。
P・K・ディックの作品群(D・スーヴィン) ・・・ 1975年に書かれたPKD論。1964年前後の傑作群「高い城の男」「火星の〜」「ブラッドマネー博士」が最高で、そのあとの「ユービック」は落ち、「電気羊」は失敗作。政治的ディストピア存在論を書いたことが重要、だって。
目覚め、叫び、走る(畑中佳樹) ・・・ PKDの主人公は「目覚め、叫び、走」り、踏み外す。
このグロテスクな世界(海野弘) ・・・ 1985年のTOKYOで、PKDの後期作品(「流れよ〜」以降)を読んだ。小説現実がよく似ていた。
現実としてのフィリップ・K・ディック(三上晴子) ・・・ 現代美術家がPKDを読んだ。
パラ(ノイア)ワールド(大橋洋一) ・・・ 「火星のタイムスリップ」「テレポートされざる男」のパラノイア。でも主題は後者の訳者解説への批判。
ポスト・ディック、ポスト・ブレードランナー山岸真) ・・・ としての「サイバーパンク」紹介。とくにウィリアム・ギブソン(「ニューロマンサー」の邦訳が出たばかり)。ユリイカ1987年11月号が「P.K.ディック以後」のタイトルで、サイバーパンクの特集を組んだ。
ペテン師に囲まれた幻視者(S・レム) ・・・ 1974年。解説によると、レムはアメリカSFにきわめて批判的。PKDにもそうだったが、「ユービック」を読んで、批判的に評価を上げた(あと好意的なのは「パーマー・エルドリッチの三つの聖痕」「去年を待ちながら」「銀河の壺直し」という不思議な選択。「電気羊」はダメだそうです)。PKDに関する指摘は、一義的な答えを与えない、世界の迷宮で途方に暮れる、安っぽいが魅惑的な社会や設定、ユートピアでもディストピアでもない独創的な未来、区分・分節化の消失、あたり。ここらへんは常識的。むしろレムのSF観を読むべきだろうが、自分はレムの良い読者ではないので、そこまではしなかった。
「暴力小説」としてのディック(川本三郎) ・・・ PKDは「世界は暴力に満ちている」ことを言い続けたペシミスティックな作家。
超越性の解体(富山太佳夫) ・・・ 「高い城の男」はさまざまな超越性を次々に設定しながら、それを次々に解体し無力化する物語。ヴォネガットスローターハウス5」は雑多性にもかかわらず負の超越性持つ物語。
P・K・ディック批評史概説(巽孝之) ・・・ PKDをいかに読んできたかの歴史。出たばかりのポール・ウィリアムズ編「P・K・ディックの世界 消える現実」のインタビューに興奮。


 日本人の書いた評論がそうじて低調。まあ、PKDの作品が次々邦訳されている最中で、資料に乏しく、熱中のさなかにいたのだから、冷静な筆致で評価を下すのはむずかしかったのだろう。むしろ、海外の人たちが資料を集めて書いたもののほうが知的興味をひく。レムのは別格で、さすがという内容。
 評論でいろいろ分析しても、そのことではPKDの読みが深まるわけではなく、こういう分析から漏れるところにPKDのおもしろさがあるのだな(「ユービック」でジョー・チップがドアや冷蔵庫と口げんかするところはレムの指摘で思い当たった)。PKDのパロディ、パスティーシュはいろいろあるけど、結局本人作のほうがずっとよい。ドストエフスキーがそうだし、音楽だとアストル・ピアソラがそう。